梅原猛が36年前(1985年)に発表した「神々の流竄」で述べた出雲神話に対する誤謬を修正したもの。
前著にあったヤマタノオロチと因幡の白兎の話は出雲で起こったことではないとしていたが、実際には出雲で起きたことと考えるべきと大きく見解を修正している。出雲神話は、天皇家につながるアマテラスの系譜とは別個に、朝鮮から来たスサノオを祖としたもうひとつの王家の物語としている。この観点から、実際にはスサノオ⇒オオクニヌシ(6代の直孫)⇒イズモタケル(オオクニヌシから17代目の王)までの存在を提案している。
「神々の流竄」では、
- 先ずは、ヤマタノオロチは大和の大神山そのものとし、オオクニヌシのイメージとした
- 一方、神武東征より一足早く天の岩船で降臨した天孫族・饒速日(にぎはやひ)は、ナガスネヒコと共に大和地方を統治していた。しかし、神武帝とナガスネヒコとの闘いが不利と知り、神武帝に寝返りナガスネヒコを倒す
- 饒速日は元々天孫族であることから二重スパイであることから、ちょうどスサノオが天で悪態をつき降臨してからはヤマタノオロチを倒し人を助けたスサノオのイメージとした。
- つまり、スサノオ(饒速日)がヤマタノオロチ(大神山)を退治して、大和を天孫族に渡す役目をした
- 因幡の白兎の物語は、白村江の戦に沖ノ島に取り残された人々が九州本土に戻る話であると考証し、出雲近郊でおきた話ではない
とあったが、これを誤謬として出雲神話を再考したのが「葬られた王朝」。
再考のトリガーは、二つの遺跡の発見と築造が三世紀に出現した前方後円墳から遡ること約200年前の、美しい巨大古墳である四隅突出型墳丘墓の出雲から富山までの分布状況の2点。
- 1984年(昭和59年)荒神谷遺跡:銅剣358本・銅鐸6個・銅矛16本出土
- 1996年(平成8年)賀茂岩倉遺跡:銅鐸39個出土
- 四隅突出型墳丘墓は、山陰地方から遠く富山の地まで及んでいること
まぁ人には間違いがあるので良しとし、今回の発表で大分すっきりと出雲神話(国譲り神話)の信ぴょう性を感じた。出雲神話の誤謬修正以外は、「神々の流竄」と同じものである。
しかし、古事記の中で描かれている神々や国譲りの話などの直接的ディレクターは、梅原猛が一貫して主張する「藤原不比等」であることは、「確かにそうだろうな」と共感している。