黒岩重吾「鬼道の女王 卑弥呼」


1999年文庫本初版。上下巻。

 

物語は172年から248年卑弥呼没までが描かれている。

この時代は、中国では後漢から三国時代に遷る頃。まら朝鮮半島も高句麗・新羅・百済の三国時代。日本は吉野ケ里集落でいうと最大規模の本格的環濠をそなえたクニができはじめたころ。

 

下図の黒枠が本著で語られる時代である。

本著で勉強になった点は主に2点。

  1.  邪馬台国のある場所を吉野ケ里遺跡としていること
  2.  青銅器祭祀の違いは文化の違いを意味すること

 ということで、順番にこの2点を調べてみる。


先ず、九州北部の吉野ケ里遺跡の場所を鳥瞰してみる。

九州北部の吉野ケ里遺跡の位置は筑紫平野の北部にあり、その北側は背振山脈がある。福岡平野はこの背振山脈の北方にあり、一応両方の平野は分離されている。筑紫平野の中心には筑後川が流れている。筑後川を舟で下れば有明海を通り、外洋にもつながる地域である。

 

吉野ケ里遺跡とは

 

吉野ケ里集落の変遷は、「吉野ケ里歴史公園」のHPに概要が書かれている。時代別に変遷と集落の特徴を参考にして時代別変遷を見てみようと思うが、その前に、古代のムラや集落ができる地形的条件を確認してみよう。

 

地形的条件は、直感的には、ムラの近いところには大きな川があり、その川が氾濫しても住居にできるだけ影響がない高台にあること。という想定のもと、地理院地図で吉野ケ里遺跡公園の地形をざっくりと見てみる。

 

上図のように、吉野ケ里遺跡公園のほぼ中心に南北線を引いて、高低差を見たのが左下図である。ちなみに、遺跡公園は筑後川の北側にある。

 

左下図の横軸左側が「北」、横軸右側が「南」を示し、地図上に赤丸でマーキングした地点の標高は18.89mと読み取れる。また「南端」の標高は約6mとすれば、遺跡公園の標高差は概ね19-6=13mとなる。このぐらいあれば、ちょっとした丘陵であり、ムラの住人の住み家は洪水の被害は殆ど気にしなくて良いはずである。つまり、古代のムラや環濠集落が作られる条件は満足している。

 

なので、HPを参考に、吉野ケ里集落の時代変遷を3つの時代別に整理した。

■弥生時代前期(紀元前5~前2世紀)

 

吉野ケ里の丘陵一帯に分散的にムラが誕生し、遺跡南端の丘陵上に吉野ケ里遺跡最古の環濠らしい跡の一部も見つかり、「縄文時代晩期の水田農耕の伝来からまもなく、周辺の小規模農村の上に立つ環壕を巡らせた吉野ヶ里の草分け的な集落が形成された可能性が出てきました」とある。

 

また、「環壕跡内部からは、大量の土器や石器、有明海産の多数の貝殻や、イヌ・シカ・イノシシ類等の獣骨とともに、青銅器鋳造に用いた鞴(ふいご)の羽口や取り瓶などが出土しました。弥生時代前期のうちに、青銅器鋳造が始まったと考えられます」...古代ロマンを感じるなぁ!

 

弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)

 

 「南の丘陵を一周する大きな外環壕が掘られます。首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕棺墓地」も見られます」...リーダーが亡くなれば大切に葬るし、親や子が亡くなれば親族が手厚く葬ることは当然という意識がより強くなるのは納得がいく。

 

集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます」...お米が出来るようになれば、クニの中の倉庫を奪いに来ることも自然の興りだよね。

 

上図は弥生中期時代とみられる木製の農具(吉野ケ里歴史公園のHPから借用)。これだけ立派な農機具があれば水田は作れただろ。

 

また、同HPには同じ時代に、環壕跡内部からは、大量の土器や石器が出土し、低地からは外洋航行船を模したと思われる船形木製品等が出土していることから、川や川から海洋にでる舟も当時の人達は必要に応じて使っていたのだろう。例えば、近くの筑後川を下れば有明海へとつながる。

弥生時代後期(紀元1~紀元3世紀

40haを超す国内最大規模の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。内部には物見櫓を備え、大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭や、高い階層の人々の居住区と考えられる南内郭等、内環壕によって囲まれた空間が設けられ、西方には、吉野ヶ里のクニの物資を集積し、市の可能性もある高床倉庫群が設けられました。吉野ヶ里の最盛期にあたります

 

環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で堅固に守られた内部に多くの人々が集まり住み、その祭政の中枢である南内郭・北内郭が存在し、祭壇など祭祀の場を備え、青銅器や鉄器、木器、絹布や大麻布などの手工業生産や、各地の手工業産品や人々が集う交易の市が推定され、まさに弥生都市とも呼べるようなクニの中心集落へと発展した姿を見ることが出来ます

 

...確かに、吉野ケ里遺跡がこのようなクニであれば、当然全国に渡り同じような環濠集落が出来ていることになる。当然のように、クニ同士が争うことが起きることもうなづける。

 

主食が米に移っていけば、これも当然のように天地の自然が安定していることを「祈る」ようになるし、医療技術がない時代に病になれば「祈る」ことにもなる。なれば、環濠の中心の一番良いところに祭祀の場が設けられるし、神様からのお告げをクニのリーダーや民に伝える「巫女」が出てきても何も不思議ではない。

 

以上のように、邪馬台国は吉野ケ里「のような」最大級の環濠集落であり、そのクニの巫女が女王的に扱われるのも納得がいく。吉野ケ里遺跡のHPを読めば読むほど黒岩説が当たらずとも遠からずと納得する。


青銅器祭祀の違いは文化の違い

 

昔から下図(吉川弘文館「日本史年表・地図」、2012年第18版)のような青銅器の種類と出土遺跡を示した図をよく見た覚えがある。

改めてみると、確かに●〇△印の銅矛・銅剣・銅戈(どうか)と●〇印の銅鐸の分布が違う点が分かる。概ね北部九州圏と河内・大和圏の二つがあって、その中間圏は両社の権力や力の影響を受けていると言える。

 

ということは、二つの文化圏があることは確かだ!これは以下にあるように、古墳時代までは祭祀の考え方ややり方が違うということになる。そのあたりを引き続き以下に調査してみた。

 

両者の使用目的の違いについて、国立歴史民俗博物館研究報告の「弥生青銅器祭祀の展開と特質」(同報告大185集、吉田広著、2014年2月)を参考にすると、

 

弥生青銅器の登場について

  • 水稲農耕開始後,長時間に及んだ金属器不在の間にも,武器形石器と転用小型青銅利器という前段を経て,中期初頭に武器形青銅器が登場するパターン
  • 一方、前段のないまま,中期前葉に北部九州で小銅鐸が,近畿で銅鐸が登場するパターン。近畿を中心とした地域は自らの意図で,武器形青銅器とは異なる銅鐸を選択したのである。

...中期初頭に武器形石器と転用小型青銅利器という段階を経て武器型青銅器が「北九州」に現れるが、銅鐸は突然、「前段のないまま、弥生中期前葉に」、北九州と近畿に登場した。北九州の銅鐸は小さいことから、昔聞いたように最初は馬の首につける鈴として「突然、中国か朝鮮半島」から持ち込まれたのか?

 

武器形青銅器と銅鐸の特質

  • 銅鐸が音響器故に儀礼的性格を具備し祭器として一貫していくのに対し,
  • 武器形青銅器は武器の実用性と武威の威儀性の二相が混交する。しかし,北部九州でも実用性に基づく佩用(はいよう、勲章、褒章などを身につけること)が個人の威儀発揚に機能し,祭器化が受容される前提となる。

...つまり、弥生中期になると、北九州でも武器型青銅器(銅剣・銅矛・銅戈)が祭祀用に転化していったということ。なるほどね!

 

青銅器祭祀の発展

  • 各地域社会が入手した青銅器の種類と数量に基づく選択により,模倣品が多様に展開するなど,祭器化が地域毎に進行...当然こういうことになるね!

その到達点として中期末葉には,

  • 多様な青銅器を保有する北部九州では役割分担とも言える青銅器の分節化を図り,中広形銅矛を中心とした青銅器体系を作り上げる。
  • 対して中四国地方以東の各地は,特定の器種に特化を図り,まさに地域型と言える青銅器を成立させた。

ただし,

  • 本来の機能喪失,見た目の大型化という点で武器形青銅器と銅鐸が同じ変化を辿りながら,武器形青銅器は金属光沢を放つ武威の強調,銅鐸は音響効果や金属光沢よりも文様造形性の重視と,青銅という素材に求めた祭器の性格は異なっていた。

...たしかに納得するなぁ!

 

弥生青銅祭器の終焉(古墳祭祀への変遷)

その相違を後期に継承しつつ,

  • 一方で青銅器祭祀を停止する地域が広がり,祭器素材に特化していた青銅が小型青銅器へと解放されていく。
  • そして,新たな古墳祭祀に交替していく中で弥生青銅祭器の終焉を迎える

...なるほど!確かに弥生時代から古墳時代に遷れば、祭祀の考え方も大きく変わるはずだ。青銅器終焉は、自然の理なのだ。

 

弥生青銅器から銅鏡への継承

同報告書の図25を参照させてもらうと、

  • 「武器型青銅器のもつ金属光沢性と銅鐸の鋳造文様の造形性の二つの特徴が統合され,かつ中国王朝の威信をも帯びた銅鏡が,古墳祭祀に新たな「祭器」として継承されていく」様子が理解できる。...なるほど!

今回の「鬼道の女王 卑弥呼」では、卑弥呼が吉備国まで国見に行って、吉備国を傘下に収めることまで描かれている。黒岩説では卑弥呼が没した248年頃に邪馬台国は台与の時代になってから河内・大和まで東遷する。

 

ただ、時代的にみて、「女龍王 神功皇后」の解説によると、邪馬台国が東遷した後に崇神王朝とか三輪王朝などと言われる初期大和政権が興るとしてある。

 

従って、どうであれ、今後も黒岩説の関係本を読むこともあり、崇神天皇前に邪馬台国の台与の時代に大和に東遷したとする。

 

なので、左の天皇系図に記載されている崇神天皇在位期間は前98年~30年とあるのに対し、魏志倭人伝で史実とされる卑弥呼時代(180年~250年)と大きくずれる。

 

ふ~~ぅ! 感想文書くのに4日間もかかった!