2日目:浄土宗の概要をおさえておく


一日目は、法然が多くの経典がある中で、正しく往生浄土をあかす経として3部4経(『無量寿経』『観経』『阿弥陀経』)を選択したことを認識した。

 

二日目は、その選択の拠り所を調べるが、その前に法然が生きた時代と中国から伝来した浄土教が天台宗のもとで往生浄土を導く念仏思想になり法然に伝わるまでの思想の流れを整理しておく。

 

以下の2点を整理しておく。

  • 法然が生きた時代
  • 中国で善導によって大成された浄土教の思想が法然に至るまでの流れ

法然が生きた時代

法然が生きた時代

 

仏教で言うところの(三時説)「末法」の時代(日本では1052年が入年。僧・王族・貴族を中心に極楽浄土への往生を願う平等院が建立)であり、特に、法然が生きた1133年~1212年の間は、方丈記に記される5大厄災、

①1177年5月:大風が吹いて都の1/3が一夜にして灰燼

②1180年4月:都に竜巻発生

③1180年6月:福原に遷都

④1181年 :1180年~1185年源平争乱と旱魃で飢餓するもの多数

⑤1185年8月:都に大地震起きる

もあり、まさに世の中は「無常」の極めであった。

 

まさに、この時代、生きることが地獄のような生活において、悪人も良人も、女性も皆等しく誰もが極楽へ往生できる「新しい仏教」の登場を待ち望んだのだろう。

 

法然が浄土宗を開宗するまでの歴史的流れ

 

中国の浄土教は、5世紀末~6世紀始めに生きた曇鸞に始まり、7世紀の唐代の僧・善導により中国浄土教の大成され、浄土往生するための行として称名念仏三昧を提唱された。

 

その後、比叡山延暦寺第三代座主で天台宗山門派の祖・円仁が、経書559巻や金剛界曼荼羅、声明など多くのものを日本にもたらし、天台密教を大成また浄土教に関する功績としては、阿弥陀仏の名号を称え続ける不断念仏を比叡山に持ち込んだ天台浄土教の第一人者であり、後の浄土宗においても重要視される

 

天台宗の円仁の山門派から、安然、相応を経て、比叡山中興の祖・良源、恵心流の源信に至る。源信の著作「往生要集」(985年)は、法然が仏教に帰依してゆくきっかけを作った。

 

往生要集

比叡山横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)に隠遁していた源信が、百六十余部の仏教経典、論疏から九五二文に及ぶ要文を集め、極楽浄土に往生するためには、念仏の実践が最も重要であることを示した書で、これにより日本の浄土教の基礎が確立された。

 

その序文に、経論の要文を集めるのだとする撰述の目的が示されている。

「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、あに敢てせんや」

 

現代文に凡人が訳すと、

「極楽浄土に往生するための行は、けがれたこの世で行う智慧と実践でなければいけない。また、仏道にはいっている人や俗世間の人、また、身分の高い人・低い人でも、誰にでもできるような行である。ただし、顕教や密教の教えは、ひとつではなく、因縁によって生じた事物、現象や真理を招く善悪の行為、またそのために行う行も多い。すぐれた智慧を持ち精進する人ですら、いまだ行の達成ができないができないというのに、私のよう頑なで愚かな者は、到底できない」

 

源信から覚超、融通念仏宗の祖・良忍、その弟子・叡空に伝わり、法然はこの叡空を師としている。