一日目は、法然が多くの経典がある中で、正しく往生浄土をあかす経として3部4経(『無量寿経』『観経』『阿弥陀経』)を選択したことを認識した。
二日目は、その選択の拠り所を調べる前に、
- 法然が生きた時代
- 中国で善導によって大成された浄土教の思想が法然に至るまでの流れ
の2点を調べた。
特に、43歳で専修念仏に帰入した法然が45歳(1177年)で布教を決意し、比叡山を下りて東山吉水に住み始めた時は、「方丈記」が記す五大厄災(1177~1185年)が始まる頃である。天災や源平争乱、平家の滅亡などの影響で、京には飢餓で苦しむ人や死者が満ち溢れているころだ。
法然が、こういう荒廃した人々や都を直接見ながら、身分に関わらずまた悪人・女人までを含めた万人を正しく往生浄土をあかす経を選択してゆく背景がみえてくる。
三日目は、法然が根本経典(浄土三部経)の決定したその依り処について調べる。
浄土宗大辞典「浄土三部経」より
②根本経典(浄土三部経)の決定の依り処
法然の決定の依り処となったのは,
善導『観経疏(『観経』に対する注釈書の総称)』散善義にあかす就行立信釈(じゅぎょうりっしんしゃく)である。
ここでは、本願に対する深信を確固たるものにするために行ずる五種の正行を説くが、その初めに読誦正行すなわち、『観経』『阿弥陀経』『無量寿経』等の読誦をすすめている。
これは本願に対する信心を確固不動のものにするために修する行である。
法然はこれを浄土往生の五種正行(往生行)とし、
世親『往生論』・曇鸞『往生論註』・善導『往生礼讃』等が重視する阿弥陀仏の浄土に往生するための行法である五念門を無視している。
このように五種正行の初めに出る読誦正行には明確に三経の名を列記していることから、「偏えに善導一師に依る」という立場で『無量寿経』等の三経を「浄土三部経」と名づけた。
善導の『観経疏』散善義の中で、深心(本願を深く信じる心)の解釈にあたって
- そもそも行には、正行と雑行があること
- 正行として、読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の五種を挙げ(五種正行)、
- この五種正行以外のすべての行を、雑行としている。
さらに、
- 第四の称名は阿弥陀仏の本願の行であることから正定業と定め、
- その他の四種を助業とする。
阿弥陀仏の極楽浄土に往生するための行としては、雑行ではなく正行を修すべきことを説いている。「正行を修すことによって、浄土往生が決定する」と深く信じることを就行立信という。
「選択集」に見られる法然の釈は、この善導の釈を踏襲したものである。
就行立信を解釈しながら読み直すと、上の解説文を読みなおすと、以下のようになる。
②根本経典(浄土三部経)の決定の依り処
法然の決定の依り処となったのは、
- 善導『観経疏(『観経』に対する注釈書の総称)』散善義にあかす就行立信釈(じゅぎょうりっしんしゃく)である。
ここでは、本願に対する深信を確固たるものにするために行ずる五種の正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養)を説くが、その初めに読誦正行すなわち、『観経』『阿弥陀経』『無量寿経』等の読誦をすすめている。
このように、
- 明確に三経の名を列記していることから、法然は「偏えに善導一師に依る」という立場で『無量寿経』等の三経を「浄土三部経」と名づけ、
- 世親『往生論』・曇鸞『往生論註』・善導『往生礼讃』等が重視する阿弥陀仏の浄土に往生するための行法である五念門を無視して、浄土往生の五種正行(往生行)とした。
少しは分かるようになったが、最後のある五種正行と同じく阿弥陀仏の浄土に往生する行として説かれた五念門とは何かを調べる。
世親の『往生論』が初出である「阿弥陀仏の浄土に往生するための行法」で、礼拝門・讃歎門・作願門・観察門・回向門の五門より構成される。
- 礼拝門
阿弥陀仏の浄土に往生するために、身業に彼の仏を礼拝すること
- 讃歎門
口業に彼の如来の名を称し、彼の如来の光明智相のごとく、名義のごとく讃歎すること
- 作願門
奢摩他(しゃまた、止、心の散動を静めて一つの対象に集中すること)を修行するために、意業に一心に専ら彼の国に往生しようと作願すること
- 観察門
毘婆舎那(びばしゃな、観、止によって正しい智慧を起こし、対象を分別照見すること)を修行するために、智業に彼の国の三種二九句の荘厳を観察すること
阿弥陀仏の願心によって成就された極楽浄土における荘厳功徳の計二九句を、国土(一七句)・仏(八句)・菩薩(四句)の三種に大別した、その総称。
- 回向門
一切衆生の苦を抜かんがために、方便智業(真実の教えに導くために仮に設けた教え)によって一切衆生とともに彼の国に生ぜんと願ずること
五念門は、浄土宗大辞典によれば、上記のものになる。
法然は、何故、同じ極楽浄土に往生するための行である五念門を無視したかと言えば、おそらく、上記の解説を見ても分かるように、相当な修行を積んだ人とか、智恵がある人でなければこのような行を完遂することはできないと、現時点でも分かる。
法然はこのような特定の人しか浄土に行けないような行ではなく、誰でもが浄土に行ける行を選択したことになる。
つまり、同じ浄土への往生に行くための行であっても、五念門ではなく誰にでもできる五種正行を選択したということが理解できた。