単行本は昭和57年(1982年)、39年前。文庫本・第1刷は1985年。
乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん)で首が飛ばされた蘇我入鹿。この本を読むと小説でありながら、
- 百済からの渡来家系である蘇我宗家
- 大臣・蝦夷と大夫・入鹿の人物像と権力
- 大王(舒明、その妃・宝皇女「皇極/斉明」、軽皇子「孝徳」)と関係
- 同じ蘇我宗家である蘇我倉田麻呂(入鹿の叔父)との確執
- 蘇我宗家と東漢氏との関係
- 当時の蘇我宗家以外の豪族
- 聖徳太子は仏教と道教思想を高句麗僧たちから学んでいたこと
- その意思を受け継ぐ理想主義の山背大兄皇子とその人間像
- 入鹿の山背大兄皇子の殺害と上宮王家全員の殺害の計画性
- 中臣鎌取(鎌子、中臣御食子の養子)の生い立ちと人間像
- 鎌取と中大兄王子、蘇我倉田麻呂の3人の人間像と入鹿殺害計画(=蘇我宗家の滅亡)
など、各人物像がはっきりと見える。
この感想は書かない。ただし、この後の天智、天武へと続く時代の背景にもなる話なので、人物の関係図、大和周辺と蘇我宗家の住んだ場所について、この本から引用させてもらい、今後の時代の参考にしたい。
ちなみに、「大王」から「天皇」へ称号が変わるのは、天武・持統朝からとして、入鹿の時代は「大王」と表記する。
例えば、
- 舒明、皇極の宮であった百済宮から、舒明大王の没後に入鹿が蘇我宗家の国家権力把握を狙うため、皇極大王を自らの敷地近傍に建てたのが、飛鳥板葺宮であること
...今回、明確に記憶に残った!
- 大伴氏は百済より渡来した蘇我氏よりも古くから倭国に居て、大王家に仕えている名門氏族。巨勢氏も蘇我氏より古くから葛城南部に勢力を張っていた豪族。二つの豪族は、一応蘇我蝦夷を大臣と認めて機嫌をうかがう程度で、忠誠心は薄いこと
- 一方、蘇我氏の祖は百済王族で、5世紀後半に倭国に渡来。雄略大王に信頼されて親交を結んでいた。雄略が葛城氏が滅ぼされた後、葛城内大臣が所有していた高宮が蘇我氏に与えられた。ここを根拠地として、次第に勢力を東に拡げた。大陸文化の摂取に懸命だった舒明以後の大王や倭国にとって、文化的な渡来人を配下にした百済王国の蘇我氏は、必要な氏族であった。
- しかし、蘇我氏から大王が出て、蘇我氏が政治の実権を握るに及び、古くから倭国に居た豪族や名門氏族に中には、機会があれば蘇我宗家を斃そうと密かに狙っているものもいた。
...確かに、新参者がいい気になっていると逆襲にあう、ということだ。
- 642年1月入鹿は、626年の大臣に就任した父・蝦夷から大臣を引き継ぐ。蝦夷は「上の大臣」となる。
- 643年10月、蝦夷と入鹿は蘇我宗家の権力誇示のため、葛城の髙宮に新たに蘇我本家の祖廟を建て、中国では天子にしか許されない「八佾舞(やつらのまい)」を舞わせる。ただし、おなじ蘇我氏家系である山背大兄王は招かず。
- この舞を行ってから、643年11月に斑鳩宮を襲い、山背大兄王とその親族全員を自殺に追い込む
- 643年11月、八佾舞をはじめ、山背大兄王殺害も契機となり、反蘇我宗家の中大兄皇子、蘇我倉田麻呂、そして中臣鎌足により皇極天皇の前で殺害される
- 661年中大兄皇子の百済復興軍を救援するために、60歳前後の斉明天皇(皇極の重祚)を筑紫まで連れていく。
- 日本書紀によると、同年7月、女帝は筑紫朝倉宮で異常な死を迎えた。一時は好意をもった入鹿が、自分の前で惨殺され、女帝を恨みながら死んでいった光景が入鹿の怨霊を呼び、錯乱状態を起こして崩御したようだ。