一日目は、法然が多くの経典がある中で、正しく往生浄土をあかす経として3部4経(『無量寿経』『観経』『阿弥陀経』)を選択したことを認識した。
二日目は、その選択の拠り所を調べる前に、
- 法然が生きた時代
- 中国で善導によって大成された浄土教の思想が法然に至るまでの流れ
の2点を調べた。
法然が、こういう荒廃した人々や都を直接見ながら、身分に関わらずまた悪人・女人までを含めた万人を正しく往生浄土をあかす経を選択してゆく背景がみえてくる。
三日目は、同じ浄土への往生に行くための行であっても、世親『往生論』・曇鸞『往生論註』・善導『往生礼讃』等が重視する「五念門」の行を無視し、五種正行を選択した理由を考察してみた。
結果的には、五念門が「特定の人しか浄土に行けないような行」であり、法然が求める「誰でもが浄土に行ける行」として五種生業を選択したことが理解できた。
五種正行を改めてメモると、
- 読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養
- さらに、この五種を二つに分け、
正定業→称名:阿弥陀仏の本願の行であるため
助 業→読誦・観察・礼拝・讃歎供養
- この五種正行以外のすべての行を、雑行としている。
法然は『選択集』において五種正行のうち、称名を正定行とした理由を述べている。
- 善導『観経疏』散善義の「一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥に、時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に」という一文の「かの仏(阿弥陀仏)の願に順ずるが故に(順彼仏願故、じゅんぴぶつがんこ)」の箇所を引いて、
- 称名正行を正定業としたのは、それが阿弥陀仏の本願に適かなうものだからであり、それゆえ念仏によって必ず往生することができるのである。それ以外を助業と解釈した。
「順彼仏願故」は、法然が専修念仏に開眼し浄土宗をうち立てる機縁となった要文であり、「開宗の文」と呼ばれている。
さて、四日目は、法然が解釈する「三経の主意」、つまり法然の「三経観」について、浄土宗「三部経」の解説文を参考に調べる。
以下の青字は、浄土宗大辞典「三部経」からの引用文。要点が分かるように、段落つけを行い、仏語などの解説は、黒字・赤字で補足してした。
法然の「三経観」:法然が解釈する「三経の主意」
三部経は、通じて浄土の美と楽をあかし、その浄土へ往生するために修する諸種の行を説いている。
これに対して法然の三教観は、
①善導の意をうけて、「三経は共に念仏を選択して以て宗致となす」といって三経の主意は通じて念仏往生にあるとしている。一具経(ワンセットの経)とし、さらに正往生教、有功往生教、具足往生教(揃い整っている往生の教え)と呼んで三経相互の間に差別をつけない。
②しかし、それぞれの経は独立した経典であるから、特色として、
-
- 『無量寿経』:本願念仏
- 『観経』 :念仏末法付属
- 『阿弥陀経』:念仏往生の証明
を説くことを主意とした。
③さらに法然は、三経から七選択をおこなった。
- 『無量寿経』から、選択本願・選択留教・選択讃歎の三つ
- 『観経』から、選択摂取・選択付属・選択化讃の三つ
- 『阿弥陀経』から、選択証誠の一つ
この七つ選択する思想は、浄土往生の行に種々な行の中から、主格を弥陀・釈迦・六方諸仏、つまり仏側に設定し、
- 弥陀・釈迦・六法諸仏は、「念仏の一法のみ」を選び取って本願を誓っていること
- また、その本願は、六方諸仏(東・南・西・北・下・上の六方の仏国土において阿弥陀仏の本願の誤りなきことを証明する諸仏のこと。羅什訳『阿弥陀経』の後半部分に登場し、この部分を六方段という)が証明したものであること
- 七選択は弥陀・釈迦・諸仏の大悲( 仏語。衆生の苦しみを救う仏の広大な慈悲)を具体的に示しているという事ができること
以上が浄土宗大辞典「浄土三部経」に解説されている法然の「三経観」である。
■要するに、法然は、三教では浄土へ往生するためには多くの修行が説かれているが、法然が後に「浄土五祖」として示す第三祖・善導が教えるように、「無量寿経」・「観経」・「阿弥陀経」の主張点が「念仏して往生する」ことを選び取っている。
さらに法然は、三経に示される「浄土往生の行に種々な行」の中から、以下の七つを選び取った(七選択)をおこなった。
- 『無量寿経』から、選択本願・選択留教・選択讃歎の三つ
- 『観経』から、選択摂取・選択付属・選択化讃の三つ
- 『阿弥陀経』から、選択証誠の一つ
その選択理由は、
- 弥陀・釈迦・六法諸仏は、「念仏の一法のみ」を選び取って本願を誓っていること
- また、その本願は、六方諸仏(東・南・西・北・下・上の六方の仏国土において阿弥陀仏の本願の誤りなきことを証明する諸仏)が証明していること
- この七選択は、弥陀・釈迦・諸仏が衆生の苦しみを救うための広大な慈悲(大悲)を具体的に示していること
である。
■そもそも八種選択の素地は、
『選択集』以前に説示された東大寺講説「三部経釈」や『逆修(死後の往生菩提に資するため、その生前にあらかじめ善根功徳を積むこと)説法』にも確認される。しかし、「弥陀・釈迦・諸仏の三仏による選択」が成立するのは『選択集』が嚆矢であり、それは弥陀化身善導と偏依善導一師の成立と重なる
つまり、弥陀化身善導による弥陀直説としての『観経疏』にある仏による取・捨という選択思想を見出し、さらには三仏同心による八種選択という画期的な思想を構築し得た。
そして、八種選択の成立によって、法然は、自身が創見した選択本願念仏思想に絶対的・普遍的価値を与え、さらには自身の開宗した浄土一宗が一代仏教中に確固たる位置を占める道を切り拓いた。
■以上のように、「浄土宗の概要をおさえておく」の4日目の結論としては、法然が、
- 弥陀化身善導による弥陀直説としての『観経疏』にある仏による取・捨という選択思想の端緒を見出し、
- さらには三経の解釈として、浄土の往生する数多い諸行の中から、弥陀・釈迦・六法諸仏が、称名念仏一行を選択しているとした八種選択という画期的な考え方を示した
- そして、八種選択の成立によって、法然は、自身が創見した選択本願念仏思想に絶対的・普遍的価値を与え、自身の開宗した浄土一宗が一代仏教中に確固たる位置を占める道を切り拓いた
以下に、浄土宗大辞典を参考に、八種選択と偏依善導の2点について記しておく。
『選択集』において、法然が創唱したもので、次の八種を明らかにした。
八種選択は、善導の『観念法門』に六部の往生経の一つとして取り上げられている」の説示に基づいて、法然が、
- 弥陀・釈迦・六方諸仏の三仏が、
弥陀:西方極楽浄土を建て、そこに住する他方仏。西方極楽浄土の教主。(弥陀)浄土教の教主。浄土宗をはじめとする浄土教諸宗において本尊とされる仏(阿弥陀如来、無量光仏、無量寿仏ともいう)
釈迦:仏教の開祖・釈尊(しゃくそん)
六方諸仏:東・南・西・北・下・上の六方の仏国土において阿弥陀仏の本願の誤りなきことを証明する諸仏。
東方:阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)
南方:日月光仏(にちがっこうぶつ)
西方:無量寿仏(阿弥陀仏)
北方:焰肩仏(えんけんぶつ、両肩から火炎を発した釈迦のたとえ)
下方:師子仏(ししぼとけ、百獣の王ライオンが吼えるが如く、威風堂々と説法し、人々を統率し正しい仏の道へ導く仏)
上方:梵音仏(ぼんおんぶつ、梵天 ? とすると、仏教では帝釈天とともに護法の神とされ、釈尊に説法を勧めたりする)
- 同心に浄土往生の行として、諸行ではなく、称名念仏一行を定め、讃え、付属するなど、
- 八つの側面から選択(取捨)していること
を明らかにした思想内容。
以下に、八種選択を列挙する。各選択の主格が、阿弥陀仏・釈尊・六方恒沙の諸仏(東・南・西・北・下・上の六方の仏国土において阿弥陀仏の本願の誤りなきことを証明する諸仏)であり、
①選択本願—『無量寿経』において、阿弥陀仏が、その因位(仏語。仏になるために修行している位)である法蔵菩薩時代、世自在王仏(せじざいおうぶつ、阿弥陀仏が法蔵菩薩(比丘びく)であった因位のときに帰依し導かれた仏)が示した二百一十億の仏土における種々なる行の中から、諸行を劣難の行として選捨し、称名念仏一行を浄土往生が叶う勝易の功徳を具えた行として本願に選取し、定めたこと。
法蔵菩薩が選取して建てた48の誓願(菩薩が衆生救済などの誓いを立てたり、あるいは衆生が生天や極楽往生を願うこと)は、以下の通り。
特に、善導・法然の四十八願解釈として、
- 善導は、誓願はすべて衆生のために発されたものであるとし、
- 法然は『選択集』において、「故に知んぬ。四十八願の中に、すでに念仏往生の願を以て、本願の中の王と為す」と第十八願(念仏往生、下の⑱)が四十八願の中心であるとした。
①無三悪趣むさんなくしゅ
②不更悪趣ふきょうあくしゅ
③悉皆金色しっかいこんじき
④無有好醜むうこうしゅう
⑤宿命智通しゅくみょうちつう
⑥天眼智通てんげんちつう
⑦天耳智通てんにちつう
⑧他心智通たしんちつう
⑨神境智通じんきょうちつう
⑩速得漏尽そくとくろじん
⑪住正定聚じゅうしょうじょうじゅ
⑫光明無量こうみょうむりょう
⑬寿命無量じゅみょうむりょう
⑭声聞無数しょうもんむしゅ
⑮眷属長寿けんぞくちょうじゅ
⑯無諸不善むしょふぜん
⑰諸仏称揚しょぶつしょうよう
⑱念仏往生ねんぶつおうじょう
⑲来迎引接らいこういんじょう
⑳係念定生けねんじょうしょう
㉑三十二相さんじゅうにそう
㉒必至補処ひっしふしょ
㉓供養諸仏くようしょぶつ
㉔供具如意くぐにょい
㉕説一切智せついっさいち
㉖那羅延身ならえんじん
㉗所須厳浄しょしゅごんじょう
㉘見道場樹けんどうじょうじゅ
㉙得弁才智とくべんざいち
㉚智弁無窮ちべんむぐう
㉛国土清浄こくどしょうじょう
㉜国土厳飾こくどごんじき
㉝触光柔軟そっこうにゅうなん
㉞聞名得忍もんみょうとくにん
㉟女人往生にょにんおうじょう
㊱常修梵行じょうしゅうぼんぎょう
㊲人天致敬にんでんちきょう
㊳衣服随念えぶくずいねん
㊴受楽無染じゅらくむぜん
㊵見諸仏土けんしょぶつど
㊶諸根具足しょこんぐそく
㊷住定供仏じゅうじょうくぶつ
㊸生尊貴家しょうそんきけ
㊹具足徳本ぐそくとくほん
㊺住定見仏じゅうじょうけんぶつ
㊻随意聞法ずいいもんぼう
㊼得不退転とくふたいてん
㊽得三法忍とくさんぼうにん
- ②選択讃歎—『無量寿経』において釈尊が、『無量寿経』下巻に説かれる三輩(浄土往生を願う者に上中下三種類の機根(能力・資質)の別があること。上輩とは、出家して菩提心(悟りを求め、獲得したいと願う心)を発し、一向に専ら無量寿仏(阿弥陀仏)を念じて諸々の功徳を修して往生を願う人。中輩とは、出家はしないが、菩提心を発し、一向に専ら無量寿仏を念じ、斎戒を奉持し、塔像を建立し、出家に食を施し、香華灯燭を供え、往生を願う人。下輩とは、出家もせず戒も守らないが、菩提心を発して、一向に意を専らにして、十念無量寿仏を念じて、往生を願う人である。いずれの人も「一向に無量寿仏を念ずる」ことから、法然は機根に上中下の相違はあっても、三輩はすべて念仏往生を明かしているとする)の文中に浄土往生の行として「家を捨て欲を棄て沙門となる」「菩提心を発す」「斎戒を奉持す」「塔像を起立す」「沙門となる」「菩提心を発す」「斎戒を奉持す」「塔像を起立す」「沙門に飯食せしむ」などの種々の行を挙げながらも、流通分(経典を註釈するにあたり、序分・正宗しょうじゅう分・流通るずう分の三つの段に分けること。序分は序説、前書にあたり、その経が説かれた由来をあかす部分。正宗分は本論にあたる。流通分はその経の結びであり、経典の利益を明かし、普及を勧める結語である)に至ってそれらの行を有上小利の行として選捨し、称名念仏一行を浄土往生が叶う無上大利の功徳を具えた行として選取し、讃歎したこと
- ③選択留教—『無量寿経』流通分において釈尊が、その他の経典や諸行を選捨して留めおかず、一切衆生の救済を目指す大慈悲をもって、『無量寿経』すなわち念仏一行を選取し、法滅百歳の後までも留めおいたこと。
- ④選択摂取—『観経』において、浄土往生の行として広く定散二善の諸行が説かれながらも、阿弥陀仏の光明は、それらの諸行を修める者を選捨して、念仏一行を称える者を選取して照らし救い、浄土往生を必ず叶えること。
- ⑤選択化讃(けさん)—『観経』下品上生において、「聞経の善」と「念仏の行」との二善を行じた往生人の命終にあたり、来迎した阿弥陀仏の化仏が「汝、仏名を称するが故に、諸の罪消滅すれば、我れ来って汝を迎う」と告げ、「聞経の善」に言及せずに選捨し、「念仏の行」のみを選取し、讃歎したこと。
- ⑥選択付属—『観経』において釈尊が、定散二善の諸行を種々に説きながらも、流通分に至って諸行を選捨して付属(釈尊が弟子の阿難や弥勒などに教えの肝要について伝授することや、宗派の祖師が弟子に宗義の根本教義を伝授することをいう。一般に経典においては、結語の箇所に説かれていることが多く、これを付属の文という)することなく、念仏一行を選取して未来永劫に伝持すべく阿難(釈尊の従弟にあたるとされる。出家後は釈尊の侍者として長年行動をともにし、教説を傍で聴き伝えたので多聞第一と称される)に付属(伝授)したこと。
- ⑦選択証誠(しょうじょう)—『無量寿経』『観経』などの経典に浄土往生の行が種々に説示されてはいるものの、『阿弥陀経』において、六方恒沙の諸仏が(東・南・西・北・下・上の六方の仏国土において阿弥陀仏の本願の誤りなきことを証明する諸仏のこと。羅什訳『阿弥陀経』の後半部分に登場し、この部分を六方段という)、それらの諸行を選・捨して浄土往生が叶う行として証明(証誠)せず、念仏一行を浄土往生が叶う行として選・取し、広長の舌(仏語。長広舌ちょうこうぜつ。仏の説く言葉が広く響きわたることを広く長い舌の相(すがた)によって表す。東・南・西・北・下・上という六方、つまりあらゆる方角の世界に無数の仏がおいでになり、その無数の諸仏がたは、おのおの広長の舌相を出して全世界を覆い、誠の言葉を説かれる)を舒(の)べて証誠(しょうじょう、ものごとが誤りなく真実であることを証明すること)したこと。
- ⑧選択我名—『般舟三昧経』所説の「何れの法を持すれば此の国に生ずることを得るや。阿弥陀仏報こたえて言く、来生せんと欲する者は、当に我が名を念じて休息有ることなければ、則ち来生することを得」という一節を踏まえ、阿弥陀仏が、浄土往生の行として諸行を選・捨し、念仏一行を選・取して相続するようにと説示したこと。
この選択我名は、他の七種と異なり『選択集』に章を設けて語られてはいない。
これら八種選択について法然が、
「本願と摂取と我名と化讃と、この四はこれ弥陀の選択なり。讃歎と留教と付属と、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙諸仏の選択なり。然ればすなわち、釈迦、弥陀および十方の各恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまう。余行は爾らず。故に知んぬ。三経ともに念仏を選んで、以て宗致とするのみ」と説示しているように、八種選択の主体がすべて弥陀・釈迦・諸仏という仏説であることを見逃してはならない。
そもそも八種選択の素地は、
- 『選択集』以前に説示された東大寺講説「三部経釈」や『逆修(死後の往生菩提に資するため、その生前にあらかじめ善根功徳を積むこと)説法』にも確認されるが、
- 弥陀・釈迦・諸仏の三仏による選択が成立するのは『選択集』が嚆矢であり、それは弥陀化身善導と偏依善導一師の成立と重なる。
すなわち法然は、
- 弥陀化身善導による弥陀直説としての『観経疏』にある仏による取・捨という選択思想の端緒を見出し、
- さらには三仏同心による八種選択という画期的な思想を構築し得た。
- そして、八種選択の成立によって、法然は、自身が創見した選択本願念仏思想に絶対的・普遍的価値を与え、さらには自身の開宗した浄土一宗が一代仏教中に確固たる位置を占める道を切り拓くことに成功したのである。
浄土宗義の大綱を偏(ひとえ)に善導一師に依ること。
法然は、『選択集』において、
- 「善導和尚は偏に(ひとえに)浄土を以て宗と為て、しかも聖道を以て宗と為ず」なので聖道門の諸師に依らず、
- 「善導和尚はこれ三昧発得(浄土宗では、口称念仏によって散り乱れている心が安らかで深い静寂の状態(三昧)に達したときに、求めずして正しい智慧が生じて自ずから極楽の依正二報(浄土の様相と仏・菩薩・聖衆など)を目の当たりに感じ見ること、すなわち観仏することを念仏三昧発得という)の人なり。道においてすでにその証有り」なので迦才(かざい)・慈愍(じみん)等の浄土の祖師に依らず、
- 「師(善導)に依って弟子(懐感、えかん)に依らず。いわんや師資の釈その相違はなはだ多し」なので懐感に依らず、
- 「師(道綽)なりといえども、いまだ三昧を発さず」なので道綽に依らない、
と四段階を通じて、偏依善導一師の理由を明らかにしている。
加えて法然は、
- 「大唐に相い伝えて云く、『善導はこれ弥陀の化身なり』と。爾らば謂うべし。またこの文はこれ弥陀の直説なりと」と述べ、善導を弥陀化身、『観経疏』を弥陀直説と明言している。
法然の思想史において、偏依善導と弥陀化身善導が提唱されるのは『選択集』が初見であり、迦才や慈愍はおろか、道綽や懐感さえ退けて善導一師に偏依する理由は、善導が教示する世界観を拠り所としなければ凡入報土の構造を明らかにし得ないからであり、法然によるそうした主張の根拠が善導弥陀化身説の確信に他ならない。
つまり、法然自身の信仰の中で弥陀化身善導が確立されているからこそ偏依善導が成立するのであり、両者の関係は仏説に裏付けられた念仏と諸行の取捨という選択思想と軌を一にするものであると言い得よう。
浄土門・聖道門(聖道浄土二門判、聖浄二門判)
道綽が創設したもので、仏教をこの二門に分ける浄土宗の教相判釈(教・判)をいう。
- 聖道門の教え:この土において仏道修行をして、さとりを開いて成仏する
- 浄土門の教え:極楽浄土に往生し、浄土で仏道修行をして、さとりを開いて成仏する
一切衆生にはみな仏性があり、そして昔から今まで多くの仏に出会っているはずなのに、なぜ今に至るまで、輪廻を続けて火宅(苦しみや煩悩にさいなまれて安住できない三界を、燃えさかる家に喩えたもの)のような生死の世界から解脱しないのかと問う。
その答えとして、
- それは聖道(門)と、往生浄土(門)という二種類の勝れた教えによって生死を出ようとしないからであるとしている。
- しかし、聖道門によっては、釈尊から遠く離れていることと、教えが深遠であるのに理解が浅いことから、さとりを得ることは難しい。
- 現在は末法であり衆生はみな凡夫である。だから浄土門のみが入るべき路である、
としている。
そして、『無量寿経』第十八願文(念仏往生)と『観経』下品下生の文を取意して、
- 一生悪を造ったとしても阿弥陀仏の名号を称えれば往生できる、と解釈し、
- また衆生が悪を起こし罪を造ることは暴風雨のようなもので、だからこそ、諸仏の大慈悲は、衆生を勧めて浄土に帰依させるのだ、
としている。
法然は、道綽が聖道門・浄土門の二門を立てる意図は、聖道門を捨て、浄土門に入らせるためであるとする。
この考え方は、道綽のみの考えではなく、曇鸞の『往生論註』の難行道・易行道の文を引用して、聖道門は難行道、浄土門は易行道であるとしている。
この浄土宗の教相判釈は、法然が『要義問答』において、
- 聖道門とされる既成各宗派の教判が「教えを選ぶ」ものであるのに対し、
- 浄土宗の教判は「機をはからう(計らう=対象、能力を考えあわせて処置すること)」ものであるとして、
その性格が異なるものであることを説いている。
具体的には『念仏大意』において、「仏道修行は、よくよく身を計り。時を計るべきなり」とあるように、
- 時代と機根とに相応する教えを選ぶことが浄土宗の教判であり、
- その考えに基づいて一代仏教が聖道門・浄土門の二門に分けられている
としている。