古代史論の基礎1(黒岩重吾:畿内古墳群から観た古代王朝の解釈)


同氏の古代史論で推定される王朝や豪族の存在について、編年された畿内の古墳群と王・在地豪族の関係が述べられている。

 

なので、以前編年表を見た覚えがあるので、各古墳群の場所と共にこの編年表から古墳群の時代をデジタル年表に追加してゆく。前回ブログのデジタル年表と同じである。

 

最初に、日本全国の古墳群の地図(山川出版社「日本史総合図録、p.13)を示す。また、これだけでは時間軸が見えないので、全国版(新人物往来社発行「図解 古墳研究最前線」)の編年表を参考にさせてもらう。ただし、全国版は後で示す畿内版と年代のずれがあるので、ここではあくまでも全国の古墳群として参照し、同図の西暦年は無視する。


今後、全国の古墳群の地域や年代は上図を参照させてもらうが、本題の黒岩論の推定内容と時代を整理するうえでは、畿内版の古墳群編年表(白石「畿内における大型古墳の編年」1989年作成、2008年一部修正)を参考にするので、上図から畿内に拡大した編年表を下図に示す。

畿内古墳群の編年表に示される各古墳群の地図をマイマップに示した。

各古墳群は色分けしているので、必要に応じて場所を確認できる。


さて、畿内古墳群のマップもできたので、編年表から畿内の各古墳群の開始と終了時点を読み取るルールは下記のようにした。

 

  • 各古墳群の先頭にあるマークの中心点を読み取り年とする。
  • ちなみに、大和・柳本古墳群に箸墓古墳が含まれていないが、ここでは柳本古墳群に入れることにする。

また、読み取りに当たって、和泉の百舌鳥古墳群の南側に和泉黄金塚古墳がある。

この古墳は、和泉市文化財のホームページにの説明文を読むと、

「信太山丘陵の先端部に築かれ、淡路島や六甲の山並みが一望できる。アジア太平洋戦争時に塹壕が掘られ、戦後、その塹壕から副葬品が見つかったことがきっかけで、1950・51(昭和25・26)年に発掘調査された。巨大な木棺を粘土で覆った埋葬施設が3基並んで見つかり、中央に女性、左右に男性が葬られていた。中央の埋葬施設から卑弥呼が魏に使いを送った景初(けいしょ)三年の記年を持つ銅鏡が出土し、一躍、全国的に注目された。

とあり、北九州勢力の東征を思わせる内容になっている。

 

そこで、和泉黄金塚古墳を古墳前期の終わりとあるので、上図の畿内古墳群の編年表に概ね270年に追加して、各古墳群の読み取りを行った。


以上のルールで読み取り、デジタル年表に追加したものが下図である。

黒岩論として、九州勢力の東征は3世紀後半の邪馬台国の消滅頃から、2段階で行われたという推定は前回のブログで以下のように整理した。 

二つの東征は、

  • 第1段

九州勢力(北九州に限らず)が,、年表の赤線で示した邪馬台国滅亡の前後(266年~280年頃)に畿内への東征。東征後にヤマトに造った王朝が「崇神王朝(イリ王朝)」となる

  • 第2段初期ー河内に東征

奴国や伊都国など海人族や鉄製兵器を有する奴国や伊都国などのクニが日向王朝が興る。3世紀後半に新羅への侵攻などもあったが、4世紀前半から中期にかけてその侵攻をせず(新羅との交戦をやっているような状況ではなくなった)、4世紀半ばから後半にかけて、河内に東征。

  • 第2段後半ー河内から大和などに周辺に勢力拡大

東征した後の4世紀後半から5世紀初頭にかけて、河内から大和に勢力拡大し、「応神・仁徳王朝」となる。

先ず、第1段の東征と、特に河内、和泉、大和地区の各古墳群との関係として、

  • 前方後円墳の箸墓古墳がある大和・柳本古墳群と大和・大和古墳群が、東征の第1段に関わる崇神王朝(三輪王朝、イリ王朝)関係者となる。
  • 一方、黒岩論以外にこの東征が邪馬台国の東征とし、箸墓古墳を卑弥呼もしくは台与の墓とする見解もある。確かに箸墓古墳が全国でも最初の大型前方後円墳の先駆けのため、魏志倭人伝で史実として伝えられる卑弥呼や西晋へ遣使を出した台与を箸墓古墳の主とする説と思われる。しかし、ここでは黒岩論の見解をベースに進める。

また、デジタル年表の最下段に示した畿内古墳群のブッロクに記載したように、

  • この第1段東征が大和地区に侵入してきた際、既に地元に居た有力な地元勢力が葛城王朝と推定。その根拠は、崇神王朝の古墳群と考えられる大和・柳本古墳群や大和古墳群に対して、遅れることわずかで葛城王朝関係者と思われる大和・馬見古墳群が出現していることである。
  • つまり、初期ヤマト王朝は、東征してきた崇神王朝と地元の葛城王朝が並列していことになる。

次に、第2段初期の東征は、

  • 年表の赤線で示した邪馬台国滅亡の前後(266年~280年頃)に興った日向王朝が、4世紀半ばから後半にかけて河内へ東征。
  • この頃から、先行する崇神王朝(イリ王朝、三輪王朝)関係者によって作られた大和・柳本古墳群や大和古墳群より大規模な前方後円墳である和泉・百舌古墳群や河内・古市古墳群が出現する。
  • 黒岩論は、この大規模な和泉・百舌古墳群や河内・古市古墳群の関係者を、日向王朝、つまり応神・仁徳王朝の関係者としている。

第2段後半は、

  • 応神・仁徳王朝は、4世紀後半から5世紀前半にかけて、大和地区を始め日本の各地へと勢力を拡大する。
  • デジタル年表の「初期ヤマト王朝」のブロックに示したように、大和に侵入した応神・仁徳王朝によって、崇神王朝(イリ王朝、三輪王朝)は消滅する。
  • 一方、葛城王朝のリーダーは、5世紀初頭に応神・仁徳王朝の大臣になっていることから、崇神王朝は滅び、葛城王朝は応神・仁徳王朝と手を結んだことになる。埋葬者が葛城王朝関係者とみられる馬見古墳群が柳本古墳群に遅れて出現していることが肯ける。

以上、黒田論で解説されている畿内古墳群と王朝との関係である。