古代史観の基礎2-2(弥生鉄史観)


これらの図面を参考に出現とその展開を追う予定であった。しかしながら、そもそも古墳が出来る以前に、中国山地中央に墳墓が出現・伝搬したかを考えると、朝鮮半島との交易(鉄)の史観も基礎知識として必要と思い、探したのが次の資料である。

 

② 藤尾慎一郎「弥生鉄史観の見直し」、国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月

 

[論文要旨]から抜粋すると、

 

・・・弥生長期編年のもとでは,

  • ず前 4 世紀前葉燕系の鋳造鉄器が出現し,
  • 前 3 世紀になっ朝鮮半島系の鍛造鉄器が登場して両者は併存,
  • さらに前漢の成立前には早くも中国東北系の鋳鉄脱炭鋼が出現するものの,
  • 次第に朝鮮半島系の錬鉄が主流になっていくことになる。

また弥生人の...鍛鉄の鍛冶加工は、

  • 前 3 世紀以降にようやく朝鮮半島系錬鉄を素材に始まり,
  • 鋳鉄の脱炭処理が始まるのは弥生後期以降となる。

したがって...

  • 鋳鉄 ・ 鍛鉄という 2 系統の鉄を対象に高度な技術を駆使して,早くから弥生独自の鉄器を作っていたというイメージから,
  • 鋳鉄の破片を対象に火を使わない石器製作技術を駆使した在来の技術で小鉄器を作り,
  • やがて鍛鉄を対象に鍛冶を行うという弥生像への転換が必要であろう。

以上が、藤尾氏の要旨であり、それが同資料の177頁ある下図に整理されている。

ここで、ブログ筆者の素人が分かるように、幾つかのキーワードを調べる。

 

鍛造と鋳造の違い

 

鍛造(たんぞう):金属をたたく(鍛える)ことによって成型する加工法

鍛造はたたく過程で金属の結晶を整え、気泡などの内部欠陥を圧着させるため、粘り強さが生まれる。

鋳造(ちゅうぞう):金属を溶かして液体にし、型に流し込む加工法

鋳造だと内部に気泡ができてしまうことがあり、これが強度を下げる原因となる。また厚みが違う部分を冷やした際に物体内部に生じる力(応力)が残り、内側から力がかかることもあり強度を下げる原因の1つとなる。

 

■鋳造鉄器(可鍛鋳鉄 かたんちゅうてつ

熱処理などによって可鍛性を与えた鋳鉄。鋳鉄中の炭素分を高温で酸化除去した白心可鍛鋳鉄と、炭素分を高温で黒鉛化した黒心可鍛鋳鉄とがある。ふつうの鋳鉄より粘り強く衝撃に耐える

 

中国で鋳鉄が早く発達した原因は、

  • 青銅器鋳造技術の長い伝統の存在と
  • 石炭を燃料として高温を獲得していたこと

■中国東北系の鋳鉄脱炭鋼

 

上図で示されているように「鋳鉄脱炭鋼」が、中国で紀元前2世紀頃に出現した理由(何故、脱炭処理が必要になったか)を調査していたら、雲南市プロジェクトの記事があった。とても分かりやすいので、青文字・赤文字で引用させてもらい、その要点を纏めると、

  • 中国では、世界に先がけて銑鉄が作られるようになり、この銑鉄を鋳型に流し込んだ鋳造鉄器とよばれる鋳物の鉄製品(多くは鉄斧や鋤先などの農耕具)が作られた。
  • しかし、この銑鉄は、鋳物を作るには便利だが、鉄中に炭素を多く含むため、非常に硬い半面、衝撃には脆い性質があり、刃物などの利器には適さなかった
  • 中国では、鉄中の炭素を減じる脱炭技術が開発され、粘りのある鉄、鋼が鋳造鉄器の刃部に利用されるようになった。

...なるほど!脱炭処理すると折れにくい鉄器ができて、刃物として使われるようになったということか。こうなると、確かに、狩猟用の槍やさばく道具にもなる。また、当然のごとく鉄製武器が出来るわけだ。

 

日本の弥生時代中期ごろになると、

  • 脱炭された鉄で作られた鉄斧の破片などが北部九州を経由して日本に運ばれ、再利用された。 石の道具で山野を開拓していた弥生人は、鉄器のもつ切れ味の威力に驚き、ムラに持ち込まれた鉄製品は貴重品だった。

...北九州のクニやムラでは、真っ先に石の道具から鉄の道具に代わるわけだ!

 

雲南市木次町の垣ノ内遺跡は弥生時代中期の集落遺跡ですが、ここから見つかった鋳造鉄斧片もこのようなものだったと考えらる。

...北九州経由か直接中国とか朝鮮半島から伝わったのだろう。

 

また、雲南市プロジェクトの記事には、「日本の製鉄はいつ始まった?」かが書かれているので、それも参考にさせてもらうと、

  • 弥生時代の前期ごろ、中国の製鉄技術は、朝鮮半島の北部に伝えられ
  • 3世紀ごろ(日本の弥生時代後期後半から古墳時代初め)には、朝鮮半島南部で生産された鉄が取引され、日本にも輸入された

...こうなると、日本の3世紀前半頃には朝鮮との鉄の交易ができるクニやムラが勢力を持つことが出来る訳だ!

 

 わが国の鉄関連遺跡で最古級の遺跡に、福岡県の赤井手遺跡があります。弥生時代中期中ごろの遺跡ですが、この遺跡は製鉄を行った遺跡ではなく、鉄素材を加工して鉄器を製作した鍛冶遺跡でした。

 

わが国では、銅鐸などの鋳造技術の後に鍛冶技術が伝わったと思われます。製鉄遺跡としては、...(中略)各地の発掘調査などから、5世紀後半には製鉄が始まっていたと考えられています。しかし一方では、弥生時代後期に鍛冶工房が急増することから、製鉄の開始時期は、このころまで遡るのではないかという見方もあります。

 

...つまり、3世紀ごろ(日本の弥生時代後期後半から古墳時代初め)には、朝鮮半島南部で生産された鉄が取引され、日本にも輸入され鍛冶工房が増えてゆくと理解しておけば良さそうだ。

 

■朝鮮半島系の錬鉄

 

錬鉄の定義は、「非常に少量の炭素(約0需哲.08%)を含む鉄合金」なので、一旦、朝鮮半島系の錬鉄の理解としては、中国で最初に行われた鋳鉄脱炭鋼に近いものとしておく。


今回のブログの「弥生鉄史観」では、庄原市の墳丘墓に関する資料を読んでいるうちに、当時の海外交易をしていた「鉄」についても少々調査しようと思ったことがきっかけであった。

 

ざっくりながら、今回知識を少し貯めたので、前回ブログで残したテーマについて調査を進める。

そのテーマは、庄原市主催の令和元年度 時悠館秋・冬の企画展「庄原盆地 弥生王墓誕生」開催記録

の第3章と第4章で示されているテーマである。

本資料には以下のような参考情報があるので、次回以降のブログで要点を整理していこう。

 

第3章 弥生王墓誕生への道のり

(1)墳丘墓への試行と塩町式土器

(2)吉備系土器と新たな儀礼

(3)巨大な中心埋葬と舞台

 

第4章 庄原盆地の弥生王墓が語ること

(1)広域交流の 要の地

(2)「墓標」から「舞台」へ

(3)日本史における意義