古代史観の基礎2-3(弥生王墓誕生への道のり)


今回のブログでは、庄原市主催の令和元年度 時悠館秋・冬の企画展「庄原盆地 弥生王墓誕生」開催記録の第3章の解説をもとに「弥生王墓誕生への道のり」を調べる。

 

第3章 弥生王墓誕生への道のり

(1)墳丘墓への試行と塩町式土器

(2)吉備系土器と新たな儀礼

(3)巨大な中心埋葬と舞台

 


本資料を読むと、

庄原・三次盆地など、江の川上流部では、弥生中期の後半(紀元前 1 世紀後半ごろ)に、大きな地域的まとまりが生まれ、塩町式土器と呼ばれる特徴的な土器様式が成立しました。

 

回転台を使い、文様豊かで装飾的な 脚台付きの大型鉢や高坏などを作りました。

 

日常的な消耗品である土器の広がりは、当時の地域経済圏とも重なるでしょう。このため、塩町式土器が分布する備後北部の盆地群を、漢書がいうような「国、クニ」、つまり地理的要因を背景に自然発生した地域勢力の最大版図とみなすとも不可能ではないかも知れません。もっとも、同一文化の分布域がそのまま単一の政治領域だったとは限らないので、ここでは「塩町式土器文化圏」と呼ぶにとどめましょう。

 

その塩町式土器文化圏を示す図面も非常に分かりやすい。

この文化圏を形成するには、人々が往来する道が必要になる。本資料によると、

 

塩町式土器の流通経路として各地からの遺跡の状況から、

  • 高梁川流域の岡山県新見盆地、
  • 斐伊川流域の島根県横田盆地、
  • さらには、出雲平野をはじめ山陰の各地
  • 比婆山連峰・船通山などの中国山地の尾根筋

と解説されている。そこで、上記の土地に行くために「道(河川も含む)」を国土地理院地図で調べてみた。

三次盆地を中心にすると、

  • 三次盆地は、広島県北部から中国山地を越えて日本海へ注ぐ江の川や山陰地方にも通じる西城川、盆地を貫流する馬洗川といった河川が合流する地点に形成されていること。そのため、これまで瀬戸内地域と山陰地域をつなぐ交通の要衝、両文化の結節点といえること。

三次盆地のすぐ東側の四隅突出型墳丘墓が出現している庄原盆地を中心にすると、

  • 東側は、中山峠を通ると現在の岡山県新見盆地に至り、高梁川流域を通ると「吉備のクニ」につながる。
  • 北側は、比婆山連邦を跨ぐと、島根県横田盆地(奥出雲市)につながり、「出雲のクニ」につながる。

以上のように、弥生中期の後半(紀元前 1 世紀後半ごろ)に、瀬戸内地域と山陰地域をつなぐ交通の要衝、両文化の結節点となる三次盆地や庄原盆地では大きな地域的まとまりが生まれ、塩町式土器と呼ばれる特徴的な土器様式が成立し、それが人と共に山陰、瀬戸内地域に広がったことが容易に推定できる。


以上、三次・庄原盆地を中心にして、塩町式土器文化圏」を見てきたので、本ブログの本題である

 

第3章 弥生王墓誕生への道のり

(1)墳丘墓への試行と塩町式土器

(2)吉備系土器と新たな儀礼

 

(3)巨大な中心埋葬と舞台

 

について、本資料を参考に調べていこう。


第3章 弥生王墓誕生への道のり

(1)墳丘墓への試行と塩町式土器

 

この地に墓域を定めた最初の世代こそ、塩町式土器の世代の人たちでした。

 

当時、塩町式土器文化圏では、四角い墳丘の4つの角が外側へ張り出す四隅突出型墳丘墓ができ、三次盆地で流行し、出雲周辺へ伝わります。

 

しかし庄原盆地の佐田谷・佐田峠墳墓群では、少し事情が異なりました。

 

初めての墳丘墓は、

  • 南側の佐田谷 3 号墓(方形台状墓)で始まり、
  • これに前後して北側の佐田峠5号墓(方形 周溝墓)・4号墓(四隅突出型墳丘墓)、
  • そして3号墓(四隅突出型墳丘墓)の順で墳丘が造られ、
  • 佐田峠4号墓は方形貼石墓に造り替えられており、

単純に四隅突出型墳丘墓に変化していったわけではなかったのです。まるで、墳墓の実験場みたいです。

 

これらの点が整理されている図を参考にすると、

甕・壺・高坏つきや、儀式用の土器「 注口付脚付鉢」を供える場所も、墳丘の下から墳丘の上へと変化し、葬送儀礼の威儀を高める工夫の過程もみられます。

 

柔軟で新規性に富む試行錯誤の連続が、後の大いなる革新の原動力となっていったのです。それは、「弥生王墓誕生」前夜のいつわりない姿でした。

 

図面とあわせて読むと、本当によく分かる。特に、興味があるのは、上記のように「実験」が行われた後の後期初頭~後期前葉にかけて佐田谷1号墳・2号墳・3号墳、佐田峠1号墳・2号墳から見つかった供養土器の主体が吉備系であることが、両者のクニの交流に関係しそうで面白い。

 

ここで、佐田谷・佐田峠墳墓群から発見された土器形状の特徴も、編年図に著されているので参考にした。


(2)吉備系土器と新たな儀礼

 

弥生中期に始まる佐田峠3号墓までの墳墓には、二つの特徴がありました。

 

①葬式のたびに墳丘を少しずつ盛り足していく(同時進行型)

②同じくらいの墓穴が仲良く並ぶ(並型)

 

これは、それぞれの被葬者がだいたい同じような地位だったこと、埋葬のたびに一族の墓地を少しずつ立派にしていったことを示すとみられます。

 

ところが、その次の佐田谷1~3号墓の特徴は、まったく違いました。

 

①先に墳丘を造ってから葬式をする(墳丘先行型)

②大きな墓穴のまわりに、ほかの墓穴が並ぶ(囲繞、じょう型)

 

これは、特別な地位にあった人物が亡くなると、その人のための墳丘工事が始まり、完成後、特別な葬式を執り行ったことを示しています。

 

出雲・吉に約百年先行して誕生した、中国地方最初の「弥生王墓」です。

 

...同資料にある「佐田谷・佐田峠墳墓群の墳丘の変化」というポンチ絵によって、同時進行型と墳丘先行型の違いがはっきりと分かる!!

 

(中略)

両墳墓群では、墳丘上や墓穴上に など、多くの儀式用の土器を供えていました。脚付長頸壺は吉備との交流を、注口付脚付鉢は吉備・伯耆との交流を物語ります。

 

...確かに、同資料の写真を見る限り、生活用土器ではなく、祭祀用土器だ!

  

 「脚壺」:佐田峠2号墳(後期初頭)

「注鉢」佐田谷1号墳(後期初頭)


また、四隅突出型墳丘墓から吉備地方に多い方形台状墓に代わっていくことからも吉備地方との関連が深まったとみることができます。

 

葬式では、吉備や伯耆など、各地のリーダーたちが墓に集まり、会食をして葬儀を進めたのでしょう。

 

そうした関係性の中で墳墓や儀式の形式と内容がしだいに整えられ、後への規として共有されていったと考えられるのです。

 

...なるほど!

...こういう流れで、吉備から大和に「前方後円墳」という古墳築造につながるんだぁ!!

 


(3)巨大な中心埋葬と舞台

 

  • こうした変化は、墳丘墓の機能とその用途が、死者を埋葬するための墓地から、葬送儀礼をおこなうための「舞台装置」へと、大きく革新されていった様子を示しています
  • さらに、巨大な中心埋葬のあり方は、被葬者の生前の社会的地位が非常に高いものであったことを示しています。
  • それは、後の出雲・吉備で出現する後期後半(2世紀~3 世紀前半ごろ)の大型弥生墳丘墓にみられる特徴そのものであり、佐田谷墳墓群は、その先例であったということができるでょう。

(中略)

このように、佐田谷・佐田峠墳墓群は、後に登場することになる中国地方や近畿地方北部など、各地の大型弥生墳丘墓の共通のお手本であった可能性が高いのです。

 

このことは取りもなおさず、

  • 両墳墓群が、弥生墳丘墓の発展形・帰着点である前方後円墳など墳のお手本でもあった

ことを意味します。

 

...確かに、納得できた。


今回のブログでは、

 

第3章 弥生王墓誕生への道のり

(1)墳丘墓への試行と塩町式土器

(2)吉備系土器と新たな儀礼

(3)巨大な中心埋葬と舞台

 

を資料の要点と図で見てきたが、両墳墓群が弥生墳丘墓の発展形・帰着点である前方後円墳など古墳のお手本となったことが理解できた。

 

次回も同資料の第4章の要点を学ぶことにしよう!

 

第4章 庄原盆地の弥生王墓が語ること

(1)広域交流の要の地

(2)「墓標」から「舞台」へ

(3)日本史における意義