前回のブログでは、庄原市主催の令和元年度 時悠館秋・冬の企画展「庄原盆地 弥生王墓誕生」開催記録の第3章の解説をもとに「弥生王墓誕生への道のり」を調べ、「両墳墓群が弥生墳丘墓の発展形・帰着点である前方後円墳など古墳のお手本」となったことが理解できた。
今回も同資料の第4章の要点を学ぶことにしよう!
第4章 庄原盆地の弥生王墓が語ること
(1)広域交流の要の地
(2)「墓標」から「舞台」へ
(3)日本史における意義
第4章 庄原盆地の弥生王墓が語ること
(1)広域交流の要の地
中国山地の中心に位置する庄原市は、瀬戸内山陽地方と日本海山陰地方の間、要衝の地にあります。「東城往来」と言われるように、東城町など山地間の伝統的な都市は金属生産と経済の発展に伴い、東西南北にその交通が発達していきました。じつは弥生時代もそれに似た状況にありました。
...庄原市を中心にして、国土地理院地図でその位置を確かめてみる。
〇:盆地、△:峠、▲:山
確かに、庄原市は東西南北の交通の要地だ!
左の白地図に現在の交通路を合わせると、三次市の三次盆地、また庄原市の庄原盆地、中山峠、東城町には中国縦貫自動車道が貫いている。
庄原盆地から北方面は、国道432号を通ると、奥出雲市を経てに至り、南方面は同じ国道432護を通ると広島県の三原市などに至る。
また、三次盆地から北方面は、中国横断自動車道(尾道・松江線)を通り、雲南市、西出雲に至り、
また南方面は、尾道自動車道を通り、尾道市に至る。
弥生時代には稲作農耕が始まりますが、その後数百年間経ってはじめて青銅器や鉄器、ガラスが作られ始めました。しかし、原料となる青銅や鉄、ガラスの一部は当初中国大陸、その後、韓半島(朝鮮半島)で作られたものを素材として輸入していたようです。
中国山地の弥生時代の遺跡では、こういった中国大陸や韓半島からの鉄素材やガラス製品が山陰地方を経て入ってきています。
佐田谷・佐田峠墳墓群の近くにある和田原遺跡群(かんぽの郷庄原付近)でも、佐田谷・佐田峠墳墓群が造られ始めたころに、山陰地方からもたらされた鉄素材やガラスの管玉・小玉(写真)が出土しています。
ここで、このように、例えば庄原盆地や三次盆地に鉄やガラス玉、またその材料が輸入して加工が始まると、当然のようにクニが発展し、文化交流が盛んになるだろう。ましてや、上記したように南北東西の交通の要衝地であればなおさらだ。
このような中国大陸や韓半島から輸入された金属や貴重品をめぐって南北交流が始まり、それらの安定的な交易のために、地域首長がともに連携していくことになったと考えられています。
...だよね!
(2)「墓標」から「舞台」へ
弥生時代当初、大陸側の日本海沿岸地域・ 響灘沿岸周辺から稲作文化はやってきました。農耕文化の到来はときに人々の生活習慣や習俗まで変えてしまう大きなイベントでした。まず、毎日お米がとれるわけではありません。
季節ごとの農耕カレンダーと穀物や食料、種籾の保存が必要となりました。また、豊作を願うため、これまでとは異なる神さまを祀らねばならなくなりました。死者の行き先もこれまでとは異なる祖先の世界だったのでしょう。
このため、弥生時代には農業とそれに関わる道具が伝えられただけでなく、稲作に関わる年中行事が発達し、死者を埋葬する 棺も変わっていったのです。
...確かに!
山陰地方日本海沿岸部などでは、墓穴(墓壙、ぼこう)に埋めた木の棺(木棺)のうえに墓標として石を積みました。その後、墓の上に土盛りを施した集団墓の周りには大きな石が貼り巡らされるようになりました。
弥生時代中期になると、このような石貼りの墳墓は京都府北部の丹後地域と、広島県北部の三次地域において発達しました。三次地域には江の川をさかのぼって伝わったと考えられています。
ところが、庄原市の佐田谷1号墓や2号墓では、木棺を埋めたあとに墳丘(土盛り)を築くのではなく、墳丘をまず築いてから、そのうえに大きな墓穴を掘って木棺を埋め置くことにしました(左の図参照)。
死者の埋葬よりも葬式の舞台としての墓作りが重視されはじめた最初の事例だったといってよいでしょう。
墳墓のまわりに石を貼り、大きな墓穴に荘厳な棺を作り、亡くなった庄原の首長(リーダー)の亡骸とともに、次世代の首長後継者が山陰地方や山陽地方の地域首長たちと会食をおこなっていたものとみています。
葬式での参列と宴会は、次世代リーダーたちが盟約を結び、新たな生活に欠かせない金属資源などといった貴重な物資の供給を保証するため、リーダーたちの連帯感を生み出す「舞台装置」となっていったわけです。
...いつの時代もおなじだ!
本資料に「大きな舞台となった墳丘墓」という写真がある。確かに、「舞台装置」としての墳丘墓だ!納得できるな!
ちなみに写真真ん中の楯築遺跡で発見された墳丘墓が、「双方中円形墳丘墓」と呼ばれ、後に「前方後円墳」のもとになった形状である。
(3)日本史における意義
(中略)
日本古代史は「文化伝播」によって説明されるところが少なくないのです。中国大陸や韓半島(朝鮮半島)の「高い文化」が直接入ってきたことによって、日本列島の文化発展が引き起こされるといった考え方です。
しかし、佐田谷・佐田峠墳墓群からみた発展の図式はそれとはやや異なります。
たしかに山陰地方には直接的な文物の流入がさまざまに行われていたことは認められますが、墳墓での葬式を誇張することによって墓を「舞台」とし、それを「装置」として地域連合を作り出し始めたのは弥生時代の庄原の人々でした。
四隅突出型墳丘墓が大陸から伝播したとする意見も以前にはありましたが、現在ではこのような墳墓に外来的な影響をみることは難しいと考えられます。
...「外来的な影響をみることは難しい」のか、四隅突出型墳丘墓の起源諸説を読んでみた。
資料は、
笠見智慧「墳丘墓からみる弥生時代後半期の山陰地方」、東京大学考古学研究室研究紀要第 33 号、PP.87-119(2020 )
四隅突出型墳丘墓は特異な形状を持ち、その起源については発見当初より言及されてきた。その方向は大きく朝鮮半島起源説と日本列島起源説に分かれる。
しかし、朝鮮起源説は1980年代まで継続したようだが、配石構造に違いがあることや、直接的な関係を示す根拠がないことなどの問題を含んでいた。
一方、日本起源説では、方形周溝墓起源説と方形貼石墓起源説のふたつがあった。しかし、方形周溝墓起源説は貼石墓起源説が有力視されるようになるにつれ、次第に下火になっていた。
1978年に 川原和人によって、突出部の形態の分類などから四隅突出型墳丘墓は、中国山間部における方形貼石墓にその起源があるとした。以降、中国地方の中でも特に山間部に起源を求める考えが次第に有力視されるようになりつつあったが、近年の島根県出雲市青木4号墓の発見により、中国地方を起源とする考えの妥当性に対する見直しの必要性が指摘された(桑原2005)。
つまり、この発見によって、山陰地方沿岸部から中国地方山間部の広い範囲のなかで相互に影響しあいながら成立したとの考えも出された(伊藤
2005)わけだ!
川原和人 1978 「島根県における発生期古墳」『古文化談叢』4 、pp.40-57
桑原隆博 2005 「四隅突出型墳丘墓の新展開」『季刊考古学』92 、pp.44-49
伊藤実 2005 「四隅突出型墳丘墓と塩町式土器 : 四隅突出の思想とその背景」『考古論集 : 川越哲志先生退官記念論集』pp.375-398
笠見の論文の結論としては、「山陰地方沿岸部から中国地方山間部の広い範囲のなかで相互に影響しあいながら成立」している。
いずれにしても、四隅突出型墳丘墓の起源は、
- 朝鮮起源説ではなく、
- 日本起源説であること、
- かつ中国山間部単独というよりは、山陰地方沿岸部との交流の中で生まれた
- その実験が庄原地方で行われたのだろう
と理解すると、二つの資料を合わせた結果であろう。今回理解しておくことにしよう!
このブログの最後に、上記した「(2)「墓標」から「舞台」へ」で解説された中で、
- 稲作という新しい文化が入り、農業を基礎とした社会進化のイメージと、
- またそこに海外交易(ガラス、鉄など)が始まった場合の社会進化イメージ
の2点について分かりやすいポンチ絵があったので、これも引用させてもらい、「庄原盆地の弥生王墓誕生」シリーズの調査は終わろう。