古代史を読んでいると、やはり「祭祀の道具やその地域性、またいつ頃その終焉するのか」について予備知識が必要になる。
特に、これまでのブログに書いたように、古墳時代前の弥生時代から墳丘墓築造の目的が単にクニの勢力誇示だけではなく、周辺地域との融合と通じた発展のための「舞台」道具になっている。
ということで、今回のブログでは、
- 弥生青銅器(弥生時代の青銅器)の登場
- 弥生青銅器の祭器化
- 弥生青銅器を用いた祭祀の終焉
について、下記の論文を参考に整理する。
参考文献
要旨から、先ず論文の全体像を整理する。引用個所は青字で、またキーワードは赤字で示す。
■弥生青銅器(弥生時代の青銅器)の登場
水稲農耕開始後,長時間に及んだ金属器不在の間にも,
- 武器形石器と転用小型青銅利器という前段を経て,弥生中期初頭に武器形青銅器が登場する。
- 一方,前段のないまま,弥生中期前葉に北部九州で小銅鐸が,近畿で銅鐸が登場する。
近畿を中心とした地域は自らの意図で,武器形青銅器とは異なる銅鐸を選択したのである。
■弥生青銅器の祭器化
- 銅鐸が音響器故に儀礼的性格を具備し祭器として一貫していくのに対し,
- 武器形青銅器は武器の実用性と武威の威儀性の二相が混交する。しかし,北部九州周縁から外部で各種の模倣品が展開し,青銅器自体も銅剣に関部双孔が付加されるなど祭器化が進行し,北部九州でも実用性に基づく佩用(はいよう、身体につけて用いること)が個人の威儀発揚に機能し,祭器化が受容される前提となる。
各地域社会が入手した青銅器の種類と数量に基づく選択により,模倣品が多様に展開するなど,祭器化が地域毎に進行した。
その到達点として弥生中期末葉には,
- 多様な青銅器を保有する北部九州では役割分担とも言える青銅器の分節化を図り,中広形銅矛を中心とした青銅器体系を作り上げる。
- 対して中四国地方以東の各地は,特定の器種に特化を図り,まさに地域型と言える青銅器を成立させた。
ただし,本来の機能喪失,見た目の大型化という点で武器形青銅器と銅鐸が同じ変化を辿りながら,
- 武器形青銅器は金属光沢を放つ武威の強調,
- 銅鐸は文様造形性の重視と,
青銅という素材に求めた祭器の性格は異なっていた。
■弥生青銅器を用いた祭祀の終焉
その相違を弥生後期に継承しつつ,
- 一方で青銅器祭祀を停止する地域が広がり,
- 祭器素材に特化していた青銅が小型青銅器へと解放されていく。
そして,新たな古墳祭祀に交替していく中で弥生青銅祭器の終焉を迎える。
しかし、金属光沢と文様造形性が統合され,かつ中国王朝の威信をも帯びた銅鏡が,古墳祭祀に新たな「祭器」として継承されていくのである。
本論文の要旨から、武器用青銅器、銅鐸という二種類の弥生青銅器の登場、古墳前の墳丘墓の時代に地域ごとに祭器化した青銅器が変容し、墳丘墓祭祀から古墳祭祀へ交代していく中で弥生青銅器が終焉し、金属光沢と文様造形性という特質が融合して銅鏡に継承されていく流れが理解できる。
これらの点を吉田氏が整理してポンチ絵に表現したものを示す。非常に分かりやすい!!