前回ブログと同様に、吉田氏の論文(後ほど、吉田氏論文を引用するので、最初のこの論文を吉田資料1と表記する)を参考に、1-2節「武器形青銅器登場の階梯」を調べる。
1. 弥生青銅器(弥生時代の青銅器)の登場
1-2 武器形青銅器登場の階梯
1-2-1 青銅器以前
1-2-2 完品武器形青銅器の登場
1-2-1 青銅器以前
(中略)日本列島においては,遼寧式銅剣関連資料の遡及可能性がある弥生前期をさらに遡って,武器形石製品が存在すると理解できる。
- 破片資料では夜臼式単純期に初現が認められ,
- 磨製石鏃となるとさらに山の寺・夜臼Ⅰ式期まで遡り,
- 武器形の全容を窺い知れる完品磨製石剣も,板付式に先行して存在したのである。
炭素 14 年代測定による新たな年代観に基づけば,青銅器に先行した石製品のみが武器形品として存在した時間は,500 年にも及ぶことになる。このような前段の存在が,後の武器形青銅器の展開に与えた影響が実は大きい。
ここで、磨製石剣の形状は、弥生早期末の福岡県雑餉隈遺跡で出土した土坑 7 基,木棺墓 4 基の中から発見された磨製石剣のポンチ絵(同論文の図3)を参考にする。
- 木棺墓 SR003 :有茎式磨製石鏃(せきぞく) 3点と夜臼式の副葬壺を伴って有節式磨製石剣 1 点が(図3左)
- 木棺墓 SR015 :有茎式磨製石鏃5 点と夜臼式の壺を伴って一段柄式の磨製石剣 1 点が(図3右)
- 木棺墓 SR011 :夜臼式の副葬壺とともに一段柄式の磨製石剣 1 点
しかし、弥生早期初頭(前900年前後)の時代から、これだけ石を磨いて鏃や剣を作っていたのがすごい。鏃や石剣(せっけん/せきけん)は当然のことながら、狩猟やムラ同士の抗争に使われていたことが分かる。
また、確かに下記の編年図に書き込みしたように、
- 完成品の武器形銅剣は倭国で出現する以前の500年間ぐらいは石製鏃や剣が先行している。しかし、前500年前後になると、磨製石鏃や石剣と並行して、完成品銅剣のかけらなどを利用した再加工品が出現してくるため、石から青銅器へ大きく変化したのだろう(前回ブログ)。
- また、やがて鋳造技術をもてば各段に製造量が多くなる武器形青銅器を先行して交易したムラの勢力は勢いづくことも納得する。
1. 弥生青銅器(弥生時代の青銅器)の登場
1-2 武器形青銅器登場の階梯
1-2-1 青銅器以前
1-2-2 完品武器形青銅器の登場
さて、こういう磨製石剣・石鏃(せきぞく)の時代から、弥生時代中期初頭に完品武器形青銅器が登場するとどうなるか?
(中略)登場期の様相を豊富な出土品で示すのが,福岡市早良区の吉武遺跡群である[力武 ・ 横山編1996]。中期初頭から形成された甕棺墓・木棺墓からなる墳墓群でも,特定の範囲に武器形青銅器をはじめとした副葬品の集中する墳墓が集まる。
ここで、吉武遺跡群以外に武器形青銅器が発見された遺跡として本論文で解説されている4つの遺跡を含めてマップで示しておく。
このような武器形青銅器の受容は,吉武遺跡群で突出して多く確認できるが,その他にも早良平野では複数の武器形青銅器出土遺跡が所在し,平野の最奥部にまで及ぶ。前期以来の拠点的な集落遺跡として板付遺跡や比恵・那珂遺跡が所在する福岡平野では,わずかに板付田端遺跡が指摘できるのに留まるのと対照的である。

これら5つの遺跡は、遠賀川より西南側にある遺跡である。さらに、完品武器形青銅器が受容される地域としては、
遠賀川流域から北九州市域(墓制として甕棺墓の広がりがこの段階で確認できない地域)
関門海峡を越えた北側の響灘沿岸の一部
南は佐賀平野側
にも及び、
まさに、朝鮮半島に対面した玄界灘沿岸地域を中心に,武器形青銅器受容が果たされている。
...なるほど、弥生中期初頭(前350年前後)から玄界灘と介して新しい武器形青銅器が流入してくるわけだ。それ以前の磨製石剣や石鏃に代わり、強力な武器が素早く受け入れられていくことが理解できる。
なので、論文で解説されている二つの遺跡から発見された完品武器形青銅器を見てみよう。
吉武高木遺跡 3 号木棺墓 | 馬渡・束ヶ浦遺跡 2 次調査E地区 2 号甕棺 |
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先ず、銅矛(どうぼこ)、銅戈(どうか)、銅剣 と言われても、形について、論文筆者が説明されている資料(以下、吉田資料2と表記)を見つけたのでそれで補うことにする。
吉田広「<論説>銅剣生産の展開」、史学研究会 (京都大学文学部内)、 史林 76巻6号、1-Nov-1993
最初に、その特徴を追うにも銅剣の各部の名称が分からないと解説文も理解できないことから、この論文で教えてもらうことにする。
①銅剣の各部名称
吉田資料2の図1に、各部の名称が書かれている。
先ず、これらの名称が頭にないと、形状に関する解説を読んでもチンプンカンプンである。
細形と平形銅剣の2点を比較すると、細形には刳方と元と呼ばれる個所があるが、平形にはなく、また平形に比べて短い。逆に、平形には棘状突起があり、細形より長い。
細形は武器になりそうだが、平形は武器というより飾りという印象をもつ。
- 細形の刳方と元の役割が、今一つ分からないが一旦割愛する。
- 樋(ひ)は、いわゆる樋(とい)であり、例えば生き物を刺した際に血が抜ける通りのようだ。
- 鎬(しのぎ、もしくはこう)は、どうやら、この樋を脊(せき)の両側に削りだした時に両刃側から研いできた面との境界のようだ。
そう言えば、「鎬を削る」という表現がある。この意味は、「互いの刀の鎬を削り合うようなはげしい斬り合いをする」=「はげしく争う」ということ。

② 細形、中細形、平形の違い
吉田資料2の図4にある「剣身長と樋長との関係」に、3つの形の違いを追記した。
ざっくりと整理すると、
- 細形:剣身長35㎝以下の銅剣
朝鮮半島で出土する大部分の銅剣がこの部類であり、朝鮮半島から持ち込まれたものと推定
- 中細形:基本的に細形の特長を引き継ぎ、剣身長33㎝から60㎝に及び銅剣
剣身長の長さに応じてA、B、C、D類と分けられる
- 平形:細形、中細形の特長とは異なり、剣身長35㎝から47㎝の銅剣
峰幅の広がりや棘状突起の誇張性などの特長によって、見た目に細形・中細形とは異なることが容易に分かる
上図で、概ね剣身長で銅剣の形が理解できるので、それぞれの特長をクローズアップする。
先ず、細形の特長について、吉田資料2の図面をもとに説明文を追記した

上図より、
- 細形には両刃の研ぎを元までやるかやらないかで、 I式、II式に大別できるようだ。
III式、また図中のIV式もあるようだが割愛して、I式にxタイプとyタイプがあるので、その解説を吉田資料2の図面3を引用し、その違いを整理した。
- x タイプ:刳方下端刃部の研ぎ出し面の形状が直線的なもの
- y タイプ:丸みを帯びたもの
次に中細形の特長を細形と比較してみていこう。
細形と中細形の特長は剣身長にあるので、両者の長さ比較ができるように図面を整備した。
細形と中細形の差異は、概ね、
- 剣身長の違いであり、A類、B類、C類、D類に分かれる
- また、それぞれの類に上述したxタイプとyタイプがある
また、中型には上図の中細形と中広形があるようなので、その違いを吉田資料2を参考にして一枚に整理した。
- 中細形が細形 I 式の形態を基本的に踏襲していたのに対して、
- 中広形は、樋が刃部下端まで明瞭に形成され、脊上、刃部とも鎬は突出部までのもの
確かに、パッと見で中広形の特長が読み取れる!
次に、細形、細中型(細形の特長を引き継ぎ剣身長が異なるもの)、細広形と平形の特長の差異が分かるように一枚ものに整理した。
平形にも I 式と II式があり、概ね、峰の部分の幅(峰幅)の違いのようだ。
- I 式:峰幅の誇張がない
- II 式:峰幅の広くなり、かつ棘状突起が誇張されている
II式の方が、いよいよ飾り(祭祀や権力誇示)の機能の方が強くなっていく感じがする。

以上、細形、中細形、中広形、平形とその特徴を整理してきた。やっと、銅剣の形式が解説文に出てきても、そこそこ理解しながら読めるようになったと思う。
そこで、本ブログの最後に、前述した吉田資料1で解説されていた二つの遺跡から発掘された銅剣、銅矛、銅戈の形式が分かったので、吉田資料1の図面4と5に銅剣などの名称を書き加えたものを付けることにする。
吉武高木遺跡 3 号木棺墓 | 馬渡・束ヶ浦遺跡 2 次調査E地区 2 号甕棺 |
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やれやれ、吉田資料1の
1. 弥生青銅器(弥生時代の青銅器)の登場
1-2 武器形青銅器登場の階梯
1-2-1 青銅器以前
1-2-2 完品武器形青銅器の登場
まで、やっと理解を深めることができた。
前回ブログで整理したように、武器形青銅器が出現する前後までの石剣や石鏃まで含めた編年図を添付しておく。
さて、次回のブログは、いよいよ銅鐸だ!
ちなみに、吉武高木遺跡で発掘された多紐細文鏡、翡翠製匂玉と銅剣だけにに着目すると、なんと、大王家(天皇家)が継承する三種の神器になっている。
この辺は、また別のブログでの調査しよう。
吉武高木遺跡 3 号木棺墓 |
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