古代史の基礎3-4(銅鐸登場の階梯)


 前回ブログと同様に、吉田氏の論文(後ほど、吉田氏論文を引用するので、最初のこの論文を吉田資料1と表記する)を参考に、1-3節「銅鐸登場の階梯」を調べる。

 

論文「弥生青銅器祭祀の展開と特質」の構成

1. 弥生青銅器(弥生時代の青銅器)の登場

 

1-3 銅鐸登場の階梯

1-3-1 銅鐸の登場時期

1-3-2 銅鐸の登場以前

1-3-3 銅鐸登場の特性

 


1-3-1 銅鐸の登場時期

 

銅鐸の出現時期も,鋳造関連資料である鋳型資料から再確認した[吉田 2008]。型式および伴出

土器から最古の時期を導き出せたのは,愛知県朝日遺跡出土鋳型(図 6‒6)である。

 

この朝日遺跡は弥生時代の代表的な遺跡とされ、清州城近くにある。詳細は、あいち朝日ミュージアム「オンライン博物館」で紹介されている。

  • その広さは80 万㎡で、佐賀県吉野ケ里遺跡100 万㎡に次ぐ広い環濠集落遺跡
  • 東海地方最大の弥生集落で、東西文化の交流の拠点として栄え、集落を囲む環濠とともに発掘された逆茂木・乱杭などの防御施設は、弥生時代が戦乱の時代であったことを物語る資料として有名のようである。

吉田資料1に銅鐸の成立資料関係のポンチ絵がある。これに遺跡の地域と銅鐸の各部名称を追記したものを下図に示す。

それぞれの地域で大きさの違いはあるものの、「1-3-1 銅鐸の登場時期」では、中部地区と北部九州地域とほぼ同時であり、その時期は弥生時代中期前半とある。


1-3-2 銅鐸の登場以前

 

(中略)朝鮮半島南部においては,小銅鐸の他にも,音響性を伴う青銅器として,銅鈴を組み込んだ各種異形青銅器が存在する

しかし、先に述べた,日本列島に武器形青銅器 3 種(細形・中細形・平形)が完品で登場する段階では,響器の機能を有する各種青銅器が朝鮮半島青銅器文化には存在しながら,日本列島には伝わっていない

 

音響器の先行品が存在しないまま,音響器としての特性を帯びた小銅鐸が弥生中期に初めて日本列島にもたらされ,近畿を中心に銅鐸として独自の展開を始めたのである。

 

1-3-3 銅鐸登場の特性(銅鐸登場の地域性)

 

北部九州への小銅鐸の登場は,武器形青銅器とともに朝鮮半島青銅器文化の海峡を越えて近接す

る地域への,ある意味同心円的波及として理解しやすい

 

ではなぜ,音響器として初めて登場した銅鐸が近畿を中心に定着したのだろうか

 

...確かに、北部九州や山陰地方は、武器形青銅器と共に小銅鐸を朝鮮半島からの波及が想像できる。しかし、そのような直接的な波及が望まれない近畿地方に何故銅鐸が定着したのだろうか?

 

菱環鈕式として成立する銅鐸は,先に触れた鋳型資料の朝日鋳型 1 点と製品 11 点を数える。出土地不詳 4 点を除いて,出雲 2 点,播磨 1 点,淡路 1 点,越前 1 点,伊勢 1 点,美濃 1 点そして尾張に鋳型 1 点となる。山陰から瀬戸内東部,北陸そして東海の広域に点在し,後の銅鐸分布の中心となる畿内地域では未出である。

 

...最初の段階では、畿内には出現していないのかぁ!!

 

次の外縁付鈕式段階でも瀬戸内側にはまだ少なく,銅鐸を主体的に選択した地域は,海峡を挟んで隣接する朝鮮半島から武器形青銅器をある意味スムーズに導入した北部九州とはやや距離を置いて,その東側に広がっていることになる。そして,

  • 次代の近畿のような明確な核を読み取ることは難しく,
  • 広域性・散在性が特徴である

このような分布ついては,

  • 先行する縄文晩期の大型粗製石棒分布圏を継承した可能性が指摘されている[難波 2000,中村 2004・2007,寺前 2010 など]。

中でも寺前は,

  • 北部九州とは異なる武器形石器の展開が近畿には見られることを明らかにし,(中略)
  • 屋外樹立あるいは両手保持といった石棒祭祀の公開性は,音響性あるいは造形性に基づいて当初から祭祀に用いられた銅鐸にこそ共通する。

...なるほどね!銅鐸の広がり方は、縄文晩期の大型粗製石棒分布圏を継承し、石棒を使った祭祀の道具に対する考え方が畿内とその他地域で異なっているのではないかということだ。

 

だから、

  • 武器形青銅器を朝鮮半島と同じ社会的脈絡の中で受容し,個人に帰した北部九州社会と異なり,
  • 新素材の青銅を公開性の高い祭祀用の器種に選択しようとしたとき,
    • 武器形以外の朝鮮半島青銅器には各種工具類,銅鏡,銅鈴を組み込んだ異形青銅器,そして小銅鐸があった。
    • ある程度の大型化を見込めること,武器と異なる金属特性が発揮できることを条件とするなら,工具類や鏡,複雑な文様造形性が突出した異形青銅器類は難しく,小銅鐸の可能な範囲での大型化がほぼ唯一の選択ではなかったか。

銅鐸が選ばれた理由はそのように考えることもできる。

 

...確かに!

 

それでも,銅鐸を確立するには,青銅器製作技術の導入と原料調達が不可避である。先に日本海沿岸の山陰・北陸から近畿そして東海という,広範な地域の連動性を指摘したが,これは経済的負荷分散に応じたものではなかったか。

 

その中で,より朝鮮半島に近い日本海沿岸の山陰地域が小さくない役割を果たし,島根県荒神谷遺跡[松本 ・ 足立編 1996],同加茂岩倉遺跡[角田 ・ 山崎編 2002]における菱環鈕式銅鐸から外縁付鈕式銅鐸までの集中を導いたと考えられる[吉田 2012b]。

 

...おぉ~!この当たりで山陰地方はじめ日本海側のクニ(出雲など)が近畿や中部へのバイパス経路になるんだ!

 

また,縄文時代以来の伝統をより残した東日本地域の一端を含み込むことで,複雑な文様や立体的造形性が銅鐸には求められることとなった。(中略)

 

 ...非常に良く理解きた!


今回のブログでも、吉田資料1を読ませてもらって理解を深めることができた。

 

次回も同資料を参考に、いよいよ弥生青銅器の祭器化してゆく背景を調査しよう!