古代史の基礎3-5①(弥生青銅器の祭器化)


今回も吉田資料1にある第2章「弥生青銅器の祭器化」 を見ていこう。

 

論文「弥生青銅器祭祀の展開と特質」の構成

1. 弥生青銅器(弥生時代の青銅器)の登場

2. 弥生青銅器の祭器化

2-1 武器形青銅器と銅鐸の祭祀性

2-2 武器形青銅器の変容

2-3 青銅器模倣品の展開

2-4 地域型青銅器の確立

2-4-1 地域型青銅器の分布

2-4-2 地域型青銅器と弥生社会

① 北部九州における青銅器の文節化

② 平形銅剣と文京遺跡

③ 荒神谷遺跡の大量埋納

2-5 銅鐸の変容

2-5-1 武器形青銅器の同笵(どうはん、鋳造に同じ鋳型を用いていること)

2-5-2 銅鐸の同笵関係

2-5-3 武器形青銅器と銅鐸の方向性の差異

2-6 小結

 


吉田資料1の第2章はボリュームがあるので、先ずは2-6節小結を引用し、キーワードなどを補ってゆくようにする。

 

古代史の基礎3-4で整理したように、「銅鐸は当初から祭器としての役割を担うべく登場したことは理解した.。一方、銅剣の方も「武器として登場しつつも,実用性に基づく武威の観念を伴い,早々に厚みの増大を伴わない身長の大型化という,非実用的な武威強調の方向に変化を始めた」ことも理解できる。

 

武器形青銅器が祭祀用にも変化してゆく時代は、弥生時代中期前葉とある(吉田資料1)。

 

朝鮮半島と同じ取り扱いまで受容していた範囲を超えて、

  • 東に広がったとき銅鐸同様に祭器としての使用が求められ,銅剣に関部双孔が付加され,見た目の大型化への欲求はさらに増大された。
  • 北部九州でも実用性に基づく佩用が個人の威儀発揚に機能し,祭器化が受容される前提となる。

「関部双孔」を、吉田資料1吉田資料2で引用されている図面をもとに整理する。

 

資料1を読む限り、例えば銅剣を実際に武器として使う場合、

  • 関部双孔が銅剣下部の低い位置に設けられている低位置関部双孔は、関部自体を覆うようにして着柄するための目釘孔

一方、

  • 細形から中細形を中心とした高位置関部双孔は,目釘孔としての着柄には明らかに不向きである。着柄を意図せず,布帛(ふはく)あるいは紐など吹き流し状の装飾付加用の孔

 吉田資料1の図11は、これらの点をポンチ絵として整理されており、それぞれの孔の意味が理解できる。図11は、北部九州と中四国地方以東の地域における銅剣・銅矛・銅戈それぞれの孔の役割と埋葬時にどのように使われるかを示している。

 

また、下図には、2014年に吉田氏が、いせきんぐ宗像シンポジウムで講演された資料中(以下、吉田資料3)に、同じ北部九州でも遠賀川の東西の地域で分けた資料もあったので、吉田資料1図11に追加してある。

弥生時代中期中頃まで


北部九州

(遠賀川以西)

北部九州

(遠賀川以東)

中四国地方以東

 


銅剣

・茎を介在させて柄に装着

・使用時には腰に佩用

銅矛

・長柄に装着

・銅矛の半環状の耳に吹き流し状の装飾が付けられる

銅戈

・長柄に装着

・銅戈を緊縛する紐とともに吹き流し状の装飾が付けられる

中四国地方以東では,銅矛・銅戈の完品はほとんどもたらされていない。

銅矛

・長柄に装着

・銅矛下部の双孔に吹き流し状の装飾が付けられる

銅戈

模造品



 上図のように、武器形青銅器が実用と装飾用に変化してゆく様子が分かってきた。吉田資料1「2-6節 小結」の続きを読んでいこう。

 

また,各地では受容した青銅器の種類と数量に基づく選択により、

  • 多様な模倣品が生みだされるなど,青銅器・青銅器文化の在地化が進行する。

そして,中期末葉には,

  • 北部九州では多種の青銅器を使い分ける分節化を達成し,
  • 中四国地方以東では特定の 1器種の地域型青銅器を成立させ,地域弥生社会における祭祀の中核をなす

に到る。

 

...中期末葉の青銅器が祭器となって列島にどのように広がったかを見ていこう。

 弥生時代中期末葉を編年図で表わすと、概ね前1世紀から1世紀とする。

吉田資料1の図17にそれぞれの地域での青銅祭器の分布が整理されている。

上図を見ても、確かに、青銅祭器として、

 

【銅鐸】

  • 畿内に集中し、尾張、中部及び山陰から日本海岸側に分布
  • 朝鮮半島などから直接日本海側を介すか、河内辺りからの展開が理解できる

【銅剣】

  • 中細形C類:日本において細形より大型化の銅剣が祭器として、出雲周辺に集中
  • 平形:これも細形より大型化し、瀬戸内南岸地域に展開

【銅矛】

  • 中広形:これも大型化して、主に対馬、北部九州、及び南四国地域に集中

このように、各青銅祭器の分布を分けて見てゆくと、それぞれの地域での祭祀のやり方が違うことも理解できるようになる。

 

これらを全部まとめた分布図が、よく歴史資料でみる下図のようなものになる。

一例として、下記の文献の図面を引用させてもらう。

 

寺沢薫「日本の歴史② 王権誕生」、講談社学術文庫2014年6月10版、P.182

 

青銅祭器の種類も多く掲載し、その分布もよく分かる。また、中部地区辺りに「武器形祭器の分布(石製・木製)」とあるが、これが吉田資料1でも出てくるように、青銅自体の入手やその地域のクニの経済力によって石や木で作った「模造品」ということになる。


以上、吉田資料1の2-6 小結」を参考にして、

 

2. 弥生青銅器の祭器化

2-1 武器形青銅器と銅鐸の祭祀性

2-2 武器形青銅器の変容

2-3 青銅器模倣品の展開

2-4 地域型青銅器の確立

2-4-1 地域型青銅器の分布

 

「2-4-1 地域型青銅器の分布まで、要点を整理してきた。続いて、分布でも武器形青銅祭器でクローズアップされた北部九州、瀬戸内南岸地域、及び出雲に焦点を当てた2-4-2 地域型青銅器と弥生社会」の解説を読んでいこう。

 

2-4-2 地域型青銅器と弥生社会

① 北部九州における青銅器の文節化

② 平形銅剣と文京遺跡

③ 荒神谷遺跡の大量埋納

 


2-4-2 地域型青銅器と弥生社会

① 北部九州における青銅器の文節化

  • 北部九州における武器形祭器として広がるのは中広形銅矛である
  • 同じく祭器に中広形銅戈あり,甕棺には中細形銅矛や中細形銅剣の副葬が続く。

このような青銅器のありかたを分節化として、以下の三点を挙げている。

  • すなわち,北部九州における最高位の祭器として中広形銅矛,そ下位に中広形銅戈がある。最終的に埋納される武器形青銅祭器であり,「奉祭の剣」と表現した。
  • 一方,中期末葉の王墓では,中細形銅矛や中細形銅戈が副葬される。副葬以前は,長柄に装着さ保持者の権威を高めた「威儀の剣」である。
  • そして,銅剣の中でも特異な形態を示し,特別に入手あるいは創出された可能性の高い,多樋式銅剣や中細形A’類銅剣,中細形Ⅱ式銅剣が副葬品に加わる。ただし,棺外副葬の場合があるなど,扱いは一段低い。被葬者が生前身に帯びた「佩用の剣」と位置づけた。

 

三者は刃部の研ぎ分け技法を共有する場合もあり,王墓を頂点とした副葬と祭器としての埋納という最終的に埋められる場面での使い分けと,それ以前の使い分けが,中期末葉の北部九州には厳然と成立していたのである(図 18)。

 

 

...先述した北部九州における弥生時代中期中頃の青銅器祭器から、弥生時代中期末葉頃の「奉祭の剣」、「威儀の剣」、「佩用の剣」による文節化に至るまでの流れを下図に整理した。これで、北部九州における青銅祭器への変容がすっきりと理解できようようになった!

 

  • ただ,その分節化の頂点の地位は,自ら製作し武器形青銅器でなく,中国王朝の威信・観念を纏った大型前漢鏡が占めていた

 

...北部九州の青銅祭器は、最終的には文節化を経て大型の前漢鏡に代わるんだぁ!

 


2-4-2 地域型青銅器と弥生社会

② 平形銅剣と文京遺跡

 

前述が弥生時代中期末葉までに北部九州における青銅器の文節化が進んだのに対して、中四国地方以東では、一器種に特化した展開をするので、次に平形銅剣が集中する瀬戸内南岸地域について読んでいこう。

 

資料では、瀬戸内南岸地域として道後平野の文京遺跡が紹介されている。

道後平野と言ってもピンと来ないので、先ずは、文京遺跡を地図でクローズアップしてみる。

...文京遺跡はあの有名な道後温泉のすぐ近く。北部九州から平形銅剣が展開するので、先ずは北部九州との距離感も併せてみたのがこの地図。北部九州として、例えば、舟で福岡地域から周防灘経由して文京遺跡に行く距離感は、隠岐の島や対馬に行くよりも遠い感じがする。

 

なので、どちらかと言うと、福岡から陸地で別府に向かい、別府津から佐田半島の突端の津に行く方がはるかに近い。北部九州からの展開ルートは、別途調べてみることにする。

 

さて、豊後平野にある文京遺跡の位置を抑えたので、次に、吉田資料1の解説文に戻る。

 

多用な青銅器の分節化に対し,中四国地方以東の地域では,1 器種に特化する方法を採用した。瀬戸内南岸地域では平形銅剣である。

 

密度分布では瀬戸内南岸でも讃岐地域に高いが,中広形銅矛や扁平鈕式銅鐸など平形銅剣以外の青銅器と混在し,扁平鈕式銅鐸と平形銅剣の共伴例(香川県羽方西ノ谷)もある[吉田 2004]。

 

対して,松山平野(道後平野はその一部)では平形銅剣 22 点が,平野北端の道後城北地域の半径 1㎞内外に集中し,かつその範囲に他の青銅祭器はみられない。松山道後城北地域において平形銅剣は,局所的・排他的に分布するのである。

 

そして,この道後城北の中期末葉には,文京遺跡が存在する。

 

大型掘立柱建物や周溝遺構を中心とした中枢域,密集居住域,高床倉庫の集中する貯蔵域,そして諸生産活動が想定できる生産域と集落内に機能別配置がみられ,銅鏡や鋳造鉄斧などの舶載品をはじめとした多用な交流を窺わせる出土品をもち,青銅器生産の存在も考慮される,地域弥生社会の核たる大規模密集型集落である[広瀬 1998,田崎 2006,柴田 2009 等]。

 

集落至近の埋納地(一万・伝樋又)は,いずれも大型掘立柱建物から東に 500 m程度しか離れてない(図 19)。墳墓を介して特定個人の姿を浮かび上がらせることはできないが,平形銅剣の祭祀あるいは生産までもが,大規模集落を中心とした地域弥生社会の構造に包摂され,地域型青銅器が地域弥生社会の形成を象徴かつ維持する重要な機能を果たしていたのである。

 

...下図の吉田資料1・図19は、文京遺跡と平形銅剣の発見場所を示している。

文京遺跡は、「地域弥生社会の核たる大規模密集型集落」であり、この集落は青銅器生産の技術も場所もあり、まさに、中四国地方以東の地域では,1 器種に特化して、平形銅剣を祭祀用として生産していたのだろう。

 

 

 

道後平野全体の遺跡と剣に関係する出土品の分布については、下記の資料も参考になる。

 

愛媛大学埋蔵文化財調査室「文京遺跡 第10次調査 文京遺跡 における弥生時代遺跡の調査 」、1991年

 

併せて、参考にさせてもらった。確かに、松山平野において文京遺跡、城北遺跡のある道後平野は一部であるが、そこに平形銅剣が集中して出土している。豊後水道に出る重信川の支流にそって遺跡が多く見つかっているおり、出土品も有柄式銅剣(ゆうへいしき)、中細形銅矛、広形銅矛などがある。その中でも、大規模密集型集落である文京遺跡、城北遺跡の集落では祭祀を平形銅剣で行うというルールが確立していたことを思わせる。


さて、次に出雲地区の青銅祭器はどのようなものだろうか?「2-4-2 地域型青銅器と弥生社会」の最後になる「③ 荒神谷遺跡の大量埋納」を読んでいこう。

 

③ 荒神谷遺跡の大量埋納

 

一括大量埋納された荒神谷遺跡の 358 本もの中細形C類銅剣は,剣身長 50㎝前後という,おそらく切り出し時に既に規格化された鋳型石材を用いることにより,突起位置を変更することで銅剣プロポーションの変異を生み出し(図 20 上段),同じ突起位置でも元部外形や脊の厚みに変化を生じさせてさらなる変異がみられた(図 20 下段)。

 

 

同笵関係をも見いだせた,このような資料群は,一括製作された状態を保ったまま,おそらくは短時間のうちに一括埋納されたと強く推察された[松本 ・ 足立編 1996]。

 

そして,荒神谷と同時製作ではないものの,同じ中細形C類に位置づけられる銅剣が出雲から伯耆地域にかけて分布する。鋳型の出土をみていないものの,一括製作の姿を保ったままの荒神谷遺跡における大量埋納と,出雲地域を中心とした分布から,中細形C類銅剣を出雲で製作された地域型青銅器と位置づけるところである。

 

...なるほど! 弥生時代の中期末葉(BC100~AC100頃) には、出雲地方に、

  • 中細形c類銅剣用の規格化された鋳形石材があって、その一部鋳形石材を変化させ、突起の位置や元部のデザインを変えたりした青銅祭器を製造
  • また、製造された中細形c類銅剣は伯耆地域にかけて分布

ことが納得できた。

 

そういう視点で、再度、平形銅剣と中細形C類銅剣の分布図を見てみると、理解が深まる。

 

ここで、上述した銅剣の鋳造技術の伝搬や技術者の渡来の様子についても、素人の想像で下図に書き込んでみた。

  • 紫の矢印が、朝鮮半島や中国本土からの鋳造技術の伝搬ルート
  • 太い橙矢印:出雲から伯耆地域への中細形C類銅剣の完成品伝搬ルート

である。中々、想像を掻き立てるポンチ絵になった!

 

...吉田資料1「③ 荒神谷遺跡の大量埋納」の続きを読むと、中細形C類銅剣とその模倣品による祭祀の浸透の様子が述べられている。

 

青銅器自体からの分析に終始し,地域弥生社会との関係が不明なままであったが,模倣品を通して,その関係を推測できる資料が島根県田和山遺跡にある。

 

田和山遺跡は,3 重環濠という一見防御性の強い集落と見られるが,その内側の狭い山頂部には,「柵によって囲繞された空間に目隠しの柵を伴った 9 本柱遺構のみが存在」するという特異な景観をなし[落合編 2005],むしろ祭祀的な色彩を強く読み取らなければならない。

 

田和山遺跡の場所は、下図のように、島根県の宍道湖の東側、松山城の南側である。

 

田和山遺跡の特長は,

  • 3 重環濠という一見防御性の強い集落と見られること
  • その内側の狭い山頂部は,祭祀的なものに使われる色彩が強く読み取れる

祭祀的な空間をもつ3重にできた環濠集落という点に興味があるので、HPを見てみよう。

 

 ...確かに、防御性の高い構造だ!また、その山頂部からは宍道湖と中海や、遠くには中海の先に日本海も見渡せるようだ。

 

そのような高台が、神への祀りの場所にふさわしいだけに、祭祀用に限定すれば、中細形C類銅剣模倣である銅剣形石製品であっても目的は達成できることになる。

 

この遺跡で銅剣形石製品が出土しているが,関部双孔の欠如や円柱状の脊の作出,そして大きさから,中細形C類銅剣模倣とできる。つまり,特殊な遺構配置をもつ田和山の地で祭祀が執行されたとき,荒神谷に大量埋納される中細形C類銅剣を象った銅剣形石剣が用いられた情景を復元でき,出雲における中細形C類銅剣祭祀の浸透,それも青銅器と青銅器模倣品という重層化を遂げた様子を指摘することができる[吉田 2012b]。

 

しかし、卑弥呼登場の約300年位前に同じような集落の中心の高所に祭祀用、あるいは巫女が神がかりする空間があったことは興味深い!この辺のことも、同HPに書かれている。


さて、吉田資料1の第2章「弥生青銅器の祭器化」を読んできた。

 

 次に、第2章の最後の節になる「2-5 銅鐸の変容」を本ブログで書こうと思ったが、この節をざっくり読む限り銅剣と銅鐸の鋳造技術に関しており、また事前調査に時間がかかりそう次回ブログとする。

 

 

2-5 銅鐸の変容

2-5-1 武器形青銅器の同笵(どうはん、鋳造に同じ鋳型を用いていること)

2-5-2 銅鐸の同笵関係

2-5-3 武器形青銅器と銅鐸の方向性の差異