古代史の基礎5-1(古代の地形を模擬する手段「洪水マップ」と再現条件)


弥生時代から古墳時代、また律令制度が始まる飛鳥時代あたりの歴史本を読むに際し、当時の北部九州、出雲、河内の地形を参考にすれば、ある出来事が起きる理由やその場所に遺跡や古墳群のようなモニュメントが作られた理由など理解が深まる。

 

以前から、FloodMaps(洪水マップ)を利用して、昔の地形を想像してきた。

 

今回は、いろいろと掲載されている各時代の地形、例えば縄文時代の河内の地形を参照して、「洪水マップ」で一番近いと思われる地形を再現して、その時の「洪水量」をその時代の目安としてみた。

 

参照用地形図は、「水都大阪」のHistroy「水都大阪の歴史」HPに掲載されている「古代大阪の変遷」の3つの時代の地形図とした。

① 縄文時代前期前半(BC5000~BC4000)

② 弥生時代後期~古墳時代前期(AC200~AC400)

③ 古墳中期以降(AC400~)

ただし、①の場合、「洪水マップ」で「洪水量(=海抜)」を調整して、①の図面と比較すると、河内湾の一部が見にくい。そこで、「① 縄文時代前期前半(BC5000~BC4000)」の参照地形は関東の当時の地形図とし、「洪水マップ」との比較をして、「洪水量(=海抜)」を決めることにした。

BC4000頃の地形

 

現在よりも海抜を9m上昇させたときの

「洪水マップ」の結果


上左図のBC4000年頃(≒① 縄文時代前期前半(BC5000~BC4000))頃の参照用地形は、「洪水マップ」の「海抜」設定を「現在より+9m」とすれば再現できることが分かる。


「②弥生時代後期~古墳時代前期(AC200~AC400)」と「③古墳中期以降(AC400~)」の地形の「海抜」設定は、「古代大阪の変遷」の地形図とその解説文を参照用地形として求めることにした。

②弥生時代後期~古墳時代前期

(AC200~AC400)

天満長柄の砂州が北へ延びきって、河内平野(河内潟)への海水の流入を遮り、河内潟は淡水湖となる。

 

③古墳中期以降(AC400~)

 

仁徳朝の治水事業により、河内湖の水域が元正すると共に、流入している大和川・枝川などが河口に三角州をつくる。そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まる


以下に、②と③の地形に近いと思われる「海抜」を求めた結果を、参照用図形と共に示す。

②弥生時代後期~古墳時代前期

(AC200~AC400) 参照用地形

現在よりも海抜を6m上昇させたときの

「洪水マップ」の結果


上の右図の結果は、HPの解説文「天満長柄の砂州が北へ延びきって、河内平野(河内潟)への海水の流入をさえぎり、河内潟は淡水湖となりました」という特徴が近いし、参照地形の平野川と楠根川辺りの河内湖の特長にも似ている。

 

 

同様に、③の地形を再現する「海抜」を求めた結果が下図である。

③古墳中期以降(AC400~)

 

現在よりも海抜を4m上昇させたときの

「洪水マップ」の結果


上の右図のように、海抜+4mの設定で、左図にある草香江の」近くに「洪水」域が残り、かつ上町台地の面積も増えている点などが参照用地形に近いと判定した。

 

以上のことから、各時代の地形に近い「洪水マップ」の「洪水量(=海抜)」を求めた結果を一覧として示しておく。

時代 「洪水マップ」の「洪水量(=海抜)」
① 縄文時代前期前半(BC5000~BC4000) +9m
② 弥生時代後期~古墳時代前期(AC200~AC400) +6m
③ 古墳中期以降(AC400~) +4m