古代史の基礎5-3(弥生時代後期:紀元前後の北部九州の勢力図)


今回のブログでは、前回ブログで作った古代地形図を活用して、邪馬台国の卑弥呼が登場する以前の弥生時代後期(紀元前後)の北部九州の地形をみながら、多くの共同体がどのような地形のところに存在したか考えてみよう!


弥生時代後期(紀元前後)北部九州の勢力図は、下記の文献にあるものを参考にする。

寺沢薫「日本の歴史2 王権誕生」、講談社学術文庫、2000年初出、2014年6月第10刷

上図の紀元前後の勢力図を参考に、この頃の地形を「洪水マップ」で再現したものを合成すると、それぞれのクニや国の地形がつかめる。

 

最初に、前回ブログで作成した弥生後期~古墳前期ごろの九州の地形と現在の地形を見てみよう。

左図は、弥生後期~古墳前期の時代(ここでは、紀元前後を表記)と現在の地形を比較すると、当たり前の事だが、当時の地形で海や大河だったものが砂州などにより海抜が高くなっただけと改めて認識させられる。

 

紀元前後の時代は、卑弥呼が登場する以前の「倭の大乱」があった時代というが、当時の地形をみるとほとんどが海もしくは大きい川であり、一体どのあたりに多くのクニや国ができたのであろうか。

そこで、前回ブログで作成した弥生後期から古墳前期ごろの北部九州の地形と勢力図を重ねてみると、

同資料で示される勢力範囲は、クニ(点線)とクニ同士が寄せ集まり国(実線)を分けて表現している。マツロ国、イト国、ナ国などよく古代史で登場する国や、多くのクニが存在することが分かる。

 

クニの名前は、いつ頃付けられたかは不明だが、ほとんどのクニの名前は漢字を変えて今も存在する。例えば、田河が田川市として今もある。

 

一方、当時の有明海は、有明海は現在の久留米市まで侵入していることが分かる。この時代の有明海近傍の海岸沿いに杵嶋から始まり御本まで15ほどクニが存在している。

 

大規模環濠集落である吉野ケ里遺跡は、神崎と嶺の中間ぐらいの有明海岸に存在している。集落を作れるところか再度確認するため、地理院地図vectorで作成した白地図に色別標高図を重ねたもので、吉野ケ里遺跡の地形を詳細に見てみる。

先ず、「洪水マップ+6m」で作成して、吉野ケ里遺跡近傍の地形図を拡大したものと、下図で示す地理院地図vectorの色別標高図の一番低い個所を6mとしたものを比較すると、当たり前だが概ね整合する。

 

下図中のが吉野ケ里遺跡がある場所。標高としては、10-50mの範囲に遺跡があることが分かる。

とすれば、「有明海沿岸と言っても、標高は最低10m以上の地形が存在する」と判断でき、前述した15のクニは同様な標高のあるところで作られたと言えるだろう。


以上、邪馬台国卑弥呼が登場する以前の北部九州の地形とクニ・国の勢力図を見てきた。

 

ここで、言えることは、確かにこれだけのクニが存在すれば、「倭の大乱」が起こるのは当然と言えば当然だ。