黒岩重吾「磐舟の光芒」


1996年5月講談社文庫 第1刷(25年前の本)。

 

物部守屋と蘇我馬子の戦いは、排仏派と推仏派の争いとこれまで認識していた。しかし、全く異なり覇権争奪戦という認識を得た。守屋や馬子が人間であれば、当然こうなってもおかしくないと思う。特に、王位争奪戦であるだけに、日本書紀などにはその旨が描かるはずもなく、たまたま敏達大王が排仏派であることから、上手に守屋を排仏派とし、馬子との闘いを排仏派と推仏派の争いにすり替えた。実は、守屋は排仏派でもなく、新しい文化の到来ととらえ、自身も河内の渋川に渋川寺(大阪府八尾市渋川町5丁目5の渋川廃寺跡)を建立している。

 

ところで、本の題目「磐舟の光芒」の意味が最後に書かれている。

「磐舟」は、物部家の祖・饒速日命は天の国から天の磐舟にのって葛城山に降臨したからの引用。

「光芒」は何かと調べると、「尾を引くように見える光のすじ。ひとすじの光」とある。そのイメージを下図に示す。確かに、物部守屋が放つ光を思い浮かべる。素晴らしい、題名である。

なお、今回も物語に登場する人物関係マップを借用して、覚え易くするために補足を付け加えた。

先ず、この関係図を見て、???と思ったのが、実は物部家と蘇我家は婚姻関係にあることだ。言われてみれば、大連・物部守屋と大臣・蘇我馬子の両者が婚姻しても何の不思議もない。特に、守屋の妹・鎌足姫が馬子の妻で、蝦夷を生んでいること。蝦夷には、物部の血が入っている。

 

また、蘇我稲目と馬子は実に大王家に入り込んでいることが、良く分かる。大臣しか大王家に妃を嫁がせることができないので、入り込んだ後は権力を握れるわけだ。

 

また、小説では河内と大和を守屋が駆け巡ることや、最後の馬子との闘い場所なども描かれている。添付された地図がないと話が負えなかったので、今回も引用させてもらう。

守屋の妻に、架空人物として弓削部出身の矢鳴姫が登場する。上の地図には、弓削の地が書かれていないが、調べると渋川寺の隣町の現・八尾市弓削町にあったようだ。現在でも弓削町や弓削公園という地名などがあり、往年を忍ばせている。ついでに、当時の標高も意識して、白地図に弓削の地をで示しておく。

 

さて、今回も黒岩重吾の歴史小説を読んだので、天皇系図での位置づけを添付し今回のブログは終わりとする。