1991年初出。講談社文庫第1刷は1993年2月。約30年前の本。
黒岩シリーズの歴史小説以外で読んだものは、全部で以下の5冊。
題 目 | 初 出 | 文庫本 第1刷 |
古代史の迷路を歩く | 1982年11月 | 中公文庫 1986年1月 |
古代浪漫紀行 | 1991年 | 講談社文庫 1993年2月 |
古代史への旅 | 1991年8月 | 講談社文庫 2014年6月 |
古代史の真相 | 1993年11月 | PHP文庫 1996年10月 |
古代史を解く九つの謎 | 1997年 | PHP文庫 2003年11月 |
今回のはサブタイトルにあるように、邪馬台国から大和王権につながる流れについての総集編になる。非常に惹かれる内容ばかりだった。
特に、筆者は邪馬台国の所在地を九州とする背景として、魏志倭人伝の文章をどう読むと九州説になるかを分かりやすく解説している。
記憶にとどめるため、以下の点を書き留めておこう。
- 邪馬台国の所在地(魏志倭人伝の解釈の仕方)
- 3世紀後半~3世紀末ごろ:邪馬台国の東遷(九州勢の東遷①:崇神王朝or三輪王朝)
- 4世紀ごろ:初期大和王権(台与時代の政祭一致の継承)
- 5世紀ごろ:応神・仁徳王朝(九州勢の東遷②、倭の五王の時代)
- 6世紀ごろ:継体王朝
上記の点のうち最初の「邪馬台国の所在地」に関する黒岩重吾説を観点に整理したので、追記しておく。残りの4つの点は追々整理しているので、今回は割愛する。
先ず、黒岩説のポイントは、
- 魏志倭人伝において邪馬台国までの道程の記事の中で、帯方郡から邪馬台国までは総行程距離が12,000余里(a)であること
- 記事にある帯方郡から不弥国までの行程距離の合計は、10,700余里(b)であることから、
- 不弥国から邪馬台国までは、aーb=1,300(概ね70㎞前後)であること
から、九州説を提案している。
- ちなみに、魏時代の里の距離換算として、記事では、釜山~対馬国、対馬国~一支国、一支国~末盧国までを概ね1000里としており、それぞれの距離感を見ると、どの港からどこの港に行くかによって多少異なるものの、概ね50~60㎞/里として換算している.
特に、魏志倭人伝から邪馬台国の所在地を特定する上で問題となる記事は、不弥国の記事の後からである。黒岩の倭人伝の読み方として、
- 不弥国までの行程は、距離で表現しているもののに対して、それ以降は、日数で表わしている
- つまり、不弥国以降の記事は、帯方郡から邪馬台国と投馬国まで南にどのぐらいの日数がかかるかというオーソライズした記事と解釈している。
そういう視点で、疑似倭人伝の記事を読んでみると、大別して、2種類の内容で書かれているような感じがする。
- ① 倭国や邪馬台国の特徴や邪馬台国に至る必要な所要日数、また行程総距離を鳥瞰的に示した記事
- ② ①を受けて、詳細に付け加えている記事
①と②の番号を記事に付け加えてみた。そう思って読むとそう思える。。。
この読み方による邪馬台国までの行程表を、従来の九州説と並行して比べられるようなものを作成してみた。
黒岩説の中で、上記以外のポイントは、
- 帯方郡から狗邪韓国(今の釜山のようだ)まで行程で、従来はすべて船で朝鮮半島の沿岸沿いにそって釜山まで行くように解釈されているが、
- 過去に角川書店が行った「第一次野生号」の関係者から、韓国の西海岸はもの凄く潮流が激しくて、あの当時の手漕ぎの舟で進むのはかなり困難という見解から、
海で行くより一旦陸に入って陸行の方が無難と見解を示している。
再度この部分の魏志倭人伝を読むと、
- 郡より倭に至るには、海岸に循い水行し韓国を歴て乍ち南し乍ち東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。
とある。黒岩視点でこれを読むと、
- 郡より倭に至るには、
- 海岸に循い水行し
- 韓国を歴て →帯方郡から舟で韓国に到着して、
- 乍ち南し乍ち東し、 →(陸に登り)南や西方面に向かいながら、
- その北岸、狗邪韓国に到る。 →沿岸の北岸に狗邪韓国(釜山)に至る。
たしかに、ずっと舟で行ったとは書いていないし、わざわざ「韓国」領域に入ったことを書いていることも「上陸」した記録と言えないでもない!
この点を含めて、上手の黒岩説を図面化しておいた。
また、最後にそれぞれの国や想定される行程(あくまで想像)と距離感が分かるように、グーグルアースで確認したものを付けておく。