古代史の基礎⑧(応神・仁徳~継体時代の血統感)


前回ブログは黒岩重吾「北風に起つ」の読書感想文と関係資料であったが、同本の解説(磯貝勝太郎、昭和後期-平成時代の文芸評論家)にこの時代の血統感が書かれている。

 

臣や連の意味はぼんやりと認識しているが、この解説を手掛かりにその役割や血統感について頭にインプットしておこう。


①畿内の有力な豪族たちの中から、大王の王権を狙う野心的な豪族が何故現れなかったか?

 

例えば、男大迹尊を擁立した大伴金村や、物部麁鹿火といった氏族は、前者がっ強大な軍事氏族であり、後者は各地に部(領土、領民)をもち、石上神宮の武器庫を管理し、祭祀権を握る有力氏族だったので、いずれも大王の王権を奪取しようと思えばできたかもしれない

 

彼らが倭国の王者になることを望んでも、他の氏族は、牢固として抜きがたい血統意識をもっていたので許容しなかったのである。

 

大伴氏も物部氏も連姓の氏族なので、大伴連金村、物部連麁鹿火と称し、連系の氏族でだった。連系の氏族は、様々な職能をもって大王に直参的に仕える氏族とされていた。例えば、大伴氏は軍事的な職能集団の氏族、土師氏は墳墓を造る職能集団の氏族として、それぞれが大王に仕えたのである。

 

連系の氏族に対して、臣姓を名乗る臣系の氏族である平群臣真鳥や葛城臣襲津彦らは、在地豪族であった。従って、彼らの臣姓にはその土地の名前が付いており、その土地を所有うしていることを意味していたので、大王家と匹敵する力をもち、大王に娘を妃として輿入れできる豪族だった。

 

だが、連姓の氏族も臣姓の豪族も大王位に即くことが許容されなかったのは、古代における根強い血統意識があったからだ。

②-1 男大迹尊の出自ー日本書紀と通説

日本書紀では、応神大王の5世の孫とされる。

 

一説では、越前・近江で勢力をふるっていた男大迹尊は、雄略大王の死後、朝廷の乱れに乗じて、応神大王の子孫と称し、約20年の対立、抗争のあと、大和の勢力を圧倒して大和に入り、好意を継承するとともに、手白香皇女(仁賢大王の皇女を皇后として地位を確立し、大王位を簒奪した人物だという。

 

②-2 男大迹尊の出自ー黒岩重吾の解釈

②-1説に疑問をもった黒岩重吾は、

男大迹尊を、応神・仁徳王朝の最後の大王だった大泊瀬幼武(雄略)の母系の血縁者であるという新しい史観を設定し、王位簒奪説を否定している。

 

黒岩説では、雄略の母親は、近江・坂田郡の息長氏の娘、押坂大中姫であり、男大迹は彼女と血縁関係があるので、前王朝の血統を引き継ぎ、大王位に即く資格のある人物という解釈をしている。そのような人物でなければ、大伴金村が擁立しない。大和の豪族たちの血統意識が男大迹尊の王位継承を許さなかったに違いないと説いている。

 


確かに、男大迹尊が王位簒奪のために大和の氏族・豪族と抗争してまで大王につくという②-1説には無理があると思う。

 

一方、男大迹尊が大王になるきっかけを作った磐井と新羅の結びつきというのは、大和の氏族・豪族、また男大迹尊にとっても実に脅威であったのであろう。