古代史の基礎5-2②(古代の地形:ヤマト地域)


最近、黒岩重吾の「ヤマトタケル」を読み始めた。その中でタケル(まだオグナだが)が双子の兄を美濃まで起きるシーンがある。その行程は、

  • 三輪周辺からナラヤマを超えて木津川に至り、
  • そこから海人族である和珥氏の協力で木津川を下り、
  • 山崎周辺の八幡に至り、
  • 今度は宇治川を遡上して、
  • 瀬田に抜け、
  • 琵琶湖を航海して
  • 安土辺りから上陸して、
  • 伊吹山地と鈴鹿山脈の間にある不破を通り、
  • 美濃まで陸行

確かに、地図を追いかけると、4世紀前後の行程路として存在していたことが分かる。


また、3世紀にヤマト王権が纏向遺跡周辺に成立したころのヤマト周辺の地形も気になり始めたので、この点を地理院地図ベクタを使って、オリジナル地形図を作成してみた。

 

標高データを付けない地図で見る限り、奈良盆地は水浸しの地域であることがうかがえる。盆地東からの川や飛鳥地方からの飛鳥川などは大和川(初瀬川)に集まり、河内へと流れ出ていく。この地図は現在であるので、3世紀頃はもっと川幅も大きかったとすれば、奈良盆地全体が湿地帯だったのだろう。そういう目で見ると、下図に多く見られる沼や池が多く点在していることも納得できる。

次に、この地図に標高データを重畳したものが下図である。

 

薄色の標高は5mから10m幅で作成していたこともあり、奈良盆地がいかにも水浸しのようにも見える。過去に奈良出張で何回も訪れたが、そういわれてみると沼や池が多かった記憶がある。