黒岩重吾「中大兄皇子伝」


初出「小説現代」1999年1月~2001年3月。単行本2001年5月講談社。

 

641年中大兄皇子が16才の時に父・舒明大王が亡くなる。物語はここから始まり、皇子の視点から書かれている。最後は、大海人皇子が身の危険を感じ吉野に去った後に、46歳で死を迎えるシーンで終わる。

 

645年11歳年上の策謀家中臣鎌子と仕組んだ乙巳の変は、皇子が20才の時である。鎌子との出会いは、皇子が蹴鞠をやっている最中とどこかで読んだ本には書かれているが、この辺も本小説とは異なり、皇子が舒明大王の殯の上奏に対して鎌子が近づいたとある。それまで、鎌子は律令国家を目指すために大王の権威回復を図る。そのためには、先ずは大臣である蘇我蝦夷・入鹿の排除が必要になる。最初は中大兄皇子の叔父にあたる軽皇子(後の孝徳大王)に近づくが器の小ささのため中大兄皇子に乗り換え、乙巳の変と律令国家確立を進める。

 

また、後の藤原鎌足と中大兄皇子は、大王の権威強化と律令国家’(公地公民制)へのかじ取りのために、政敵になる人物(古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂、孝徳大王、有間皇子)を直接的、間接的に排除してゆく。

 

史実を縫うように人間関係を描いているので興味深く読んだ。


また、特にこの時代あたりから大王家、豪族の婚姻関係が、ごちゃごちゃになってくる。そもそも一夫多妻であるがゆえに、策謀と殺し合いが起こる。黒岩小説の「落日の王子 蘇我入鹿」の蘇我氏関係系図と「中大兄皇子伝」の関係図をマージすると、大王系が蘇我氏から藤原氏に遷り変わってゆく様子が分かりやすくなるので、下図に示しておく。

 


 

 推古 626年 1歳  中大兄皇子(葛城皇子)が誕生
舒明 641年 16歳 父・舒明大王、崩御
皇極 642年 17歳 皇極大王(母・宝皇女)、即位
  643年 18歳 蘇我入鹿、山背大兄皇子を殺す
  644年 19歳 中臣鎌人と出会う?小説では642年頃
  645年 20歳

乙巳の変

・入鹿が大王に擁立しようとした古人大兄皇子を処刑

孝徳 646年 21歳 改新の詔を発布
  649年 24歳 蘇我倉山田石川麻呂を討伐
  650年 25歳 孝徳大王、長門より白雉を献じられ年号を「白雉」に改元(祥瑞改元、しょうずいかいげん)
  653年 28歳 孝徳天皇と対立
  654年 29歳 孝徳大王、難波で崩御(59歳)
斉明 655年 30歳 斉明大王、即位(重祚)
  658年 33歳 有間皇子の変(孝徳大王の子、謀反の疑いで処刑)
  660年 35歳

漏刻(水時計)を作成

原理図はこちら ・場所はこちら

  661年 36歳 斉明大王、朝倉橘広庭宮で崩御
667年 42歳 近江大津宮に遷都 ★:中大兄皇子が称制
天智 668年 43歳

中大兄皇子、即位(天智天皇)

近江令の編纂(671年施行)

  669年 44歳 中臣鎌足、死去
  670年 45歳

庚午(こうご)年籍を作成

  671年 46歳

・大友皇子を太政大臣に任じる

・天智天皇、崩御

藤原鎌足の没後、白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称した。さらに、大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足の御神像を安置した(談山神社の始まり)。


中大兄皇子と中臣鎌子(鎌取)が、蘇我蝦夷・入鹿打倒を目指すにあたり影響を受けた人物として、南淵請安が登場する(承安の墓、場所はこちら)。

 

飛鳥川上流の南淵に居住した東漢氏の一族。608年(推古天皇16年)に小野妹子、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(みん)らとともに遣隋使として渡航し、640年(舒明天皇12年)に玄理らとともに新羅を経て帰国した。33年に及ぶ中国滞在中に隋から唐への王朝の交替を見聞し、この経験が帰国後に大きな影響を与えたといわれる。中大兄皇子や中臣鎌子らは、この請安に儒教を学び、小説では承安塾で蘇我入鹿・蝦夷討滅の計画を練っている。また、小説では請安は乙巳の変の前に蘇我入鹿により惨殺されている。