黒岩重吾「天の川の太陽」壬申の乱


初出1976(昭和51)年1月「歴史と人物」、文庫本初版1982(昭和57)年9月。46年前の古代歴史小説。吉川英治文学賞受賞作。

 

先に読んだ天智大王の語り口で描かれた「中大兄皇子伝」に対し、その実弟と言われる大海人皇子を中心に壬申の乱の背景と近江大津京陥落までを描いた歴史小説。

 

大海人皇子が鵜野讃良(うのさらら)皇女、草壁皇子、舎人達と大津京へ脱出する緊迫感、雪降る日に芋峠を通り吉野離宮に至るまでの悲壮感、また吉野離宮で約半年間にわたり東国挙兵を進める躍動感などひしひしと臨場感を味わえた。

 


大津京から飛鳥の嶋宮(元、蘇我馬子の嶋の館)への脱出もドキドキするものがあるが、嶋宮から芋峠を経て吉野離宮に至る道程の厳しさは身に染みる。現在でも、グーグルマップでは芋峠を通過個所が撮影されていない。

下図の左下が嶋の宮、左上が吉野離宮。雪と霙の中を芋峠を経由して離宮までの行程は悲壮感が漂っただろうと思う。晴れの日でもキツソウなのに、鵜野讃良皇女は輿の上で草壁皇子を抱えて耐えたと思うと実に紀の強い女性だと思うし、後の持統天皇になるだけのことはある。

 

ちなみに、「天の川の太陽」では芋峠から離宮に向かう前に、下図右側の比曽寺に立ち寄り休憩している。ここで大海人皇子は強行軍であることから、皇女と皇子を泊まらせることを讃良に話すが「一緒に吉野離宮まで行く」と強い意思表示をするくだりがある。

 

しかし、比曽寺には芋峠から下り坂で直接向かっているようだが、現在の地図ではその道はない。多分、事実だとすれば獣道を下ったか、「千股」経由で行ったかは不明。

 

なお、吉野歴史資料館HPにある資料を読むと、2015年現在吉野離宮への道程はまだまだ解明されていないようだ。

別の角度で見ても、この芋峠というところは飛鳥と吉野を区切っていることが分かる。

嶋の宮は671年10月20日朝に発って、同日中に吉野離宮に到着している。東国挙兵に向けて、吉野離宮から桑名に向けて発つ日が672年6月24日なので、約8か月間離宮に滞在している。

 

ちなみに、吉野離宮の再現プロジェクトが現在進行中で、今年から着工されるとのこと。


さて、次に672年6月24日に東国挙兵に向けて吉野離宮を発ち、1か月後の7月24日に大津京を陥落するまでの道筋を見ていこう。

 

下図の資料の進路を参考にさせてもらい、グーグルアースで地形からみてその進路がとられる理由を確認してみよう。

先ずは、吉野離宮から見た近江大津京までの進路を鳥瞰してみる。

 

山間の谷の道を桑名まで進んでいることが分かる。

2Dで見てみると、そのことがよく分かる。

不破郡家から大津京を眺めた鳥観図を下図に示す。

 

壬申の乱に限らず、関ヶ原の不破関は確かに畿内と東国の交通を抑える要所である。


額田王を調べているうちに、大海人皇子が壬申の乱で背中に矢を受けて京都の八瀬というところでかま風呂で傷をいやしたところがある。「背中の矢」から「矢背」となり「八瀬」となったと言われているようだ。

 

釜風呂の遺跡は八瀬大原にある瑠璃光院のHPに掲載されている。