黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」


初出1993年1月~1995年1月「小説中公」、文庫本1998年9月初版。約30年前の古代歴史小説。

 

聖徳太子 日と影の王子」の終章を受けて書かれた本。内容は、帯カバーにある文言を参考にすると、聖徳太子の死と上宮王家滅亡までの謎解が描かれている。611年(推古19年)から上宮王家滅亡の643年までの時代小説。

 

博愛主義の政治という理想が現実世界で阻まれる中、聖徳太子は次第に厭世観を募らせていく。一方、強靭な生命力をもつ推古女帝は、血の怨念から大兄皇子である聖徳太子へ大王を渡すこともなく大王位にかじりつく。挙句の果てに、蘇我馬子と組んで太子疎外を画策する。

 

こういう中で、馬子と女帝の死後におきる蘇我蝦夷・入鹿と山背大兄皇子との王位をめぐる闘争、そして上宮王家の滅亡へとつづく。


この小説で拾った幾つかのキーワードを調べてみよう。

 

  1.  推古女帝の血の執念五条野丸山古墳のふたつの石棺とその配置
  2.  黒岩重吾の「憲法17条」説
  3.  聖徳太子が残した言葉世間虚仮唯仏是真(セケンコケユイブツゼシン)

この中で、特に「血の怨念」がこの小説の骨子のようなので、最初にこの点から調べてみる。

 

1. 推古女帝の血の怨念

推古女帝や聖徳太子、蘇我系に関わる系図は、複雑なので「聖徳太子 日と影の王子」でも下記のような系図が書かれていた。

「斑鳩王の慟哭」の登場人物が入鹿を除いて全部出ているが、如何せん「血の怨念」が良く分からない。そこで、「斑鳩王の慟哭」で引用されている系図では、この「血の怨念」が欽明大王を中心に蘇我稲目の二人の姉妹(蘇我馬子の姉二人)、堅塩姫(下図の青枠)小姉君(下図の橙枠)間の血の争いであることが分かる。

 

左図が二人の姉妹の系図が描かれている。また、この「血の怨念」は姉妹のそれぞれの娘である推古女帝穴穂部間人王女に引き継がれる。小説の設定では、「血の怨念」をむき出しにするのが推古女帝であり、そういう視点で穴穂部間人王女の皇子である聖徳太子にも「血の怨念」が向けられている。

小説では、推古女帝が「血の怨念」から母・堅塩姫の石棺を欽明大王の陵墓(古墳)に皇后として合葬すること、しかも、欽明大王の石棺を手前にずらし奥に母・堅塩姫の石棺を置くことを宣言してから王位の権力誇示が始まっている。確かに、古代だけに凄いことを考え、実行する女帝である。

 

この古墳は、全長310mの大規模な前方後円墳である現在の五条野丸山古墳と言われ、日本一の石室を持っている。平成4年(1992年)の発掘調査で石棺が二つあり、配置も当時の常識から考えても異常と言われている。黒岩重吾のあとがきにもあるように、この発掘調査結果が今回の「斑鳩王の慟哭」執筆につながったとある。

グーグルアースで見ても、前方後円墳の特徴が確認できる。


2. 黒岩重吾の「憲法17条」説

黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」下巻の終章において、日本書紀で604年厩戸が作ったと言われる憲法十七条に関する黒岩の見解が書かれている。

 

憲法17条は、明治時代になってから津田左右吉が、憲法の文言の中に推古朝にはありえないものが存在することを具体的に述べ、後世のモノとした(偽作説、現在においてもあるようだ)。

 

偽作説がある憲法17条について黒岩は、厩戸の人間性、思考性を考慮し、和・礼・仏教・私利私欲へのいましめ、無心の尊さ、独断のいましめなどは厩戸が実際に斑鳩宮で詔されたと設定している。

 

例えば、黒岩が簡便に述べている以下の憲法17条の条項の中で、「聖徳太子 日と影の王子」や「斑鳩王の慟哭」で出てくるシーンから小説に織り込まれていると感じた条項を赤字で示す。

  1.  和の尊さ
  2.  三宝=仏・法・僧を敬うこと
  3.  君臣の関係
  4.  群臣に礼が政治の根幹と説く
  5.  賄賂へのいましめ
  6.  勧善懲悪
  7.  任務に対する官吏(かんり)の責任感
  8.  速く出仕し遅く退出
  9.  信(まこと)は道義の根幹
  10.  自分だけの怒りを表すな
  11.  信賞必罰
  12.  徴税における私欲のいましめ。国に二君なく明に二主なし
  13.  群臣は同僚の職務を知り助け合うべし
  14.  群臣は嫉妬するな
  15.  私の心を捨て同僚と心を同じくせよ
  16.  農繁期に民を使役に使うな
  17.  独断のいましめと論議の必要性

 黒岩は、憲法17条の全否定ではなく、厩戸の思想に近いものがベースにあり、それを後世に政治色を強くして書き加えたという観点をとっている。

 

確かに、全否定ではないところがふたつの古代歴史小説を生んだ背景にあると思う。

 


3. 世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)

622年厩戸(聖徳太子、49歳)の死亡後に厩戸をしのび天寿国曼荼羅繍帳(日本最古の刺繍遺品)を作ったのは、最後の妃・橘大郎女であり、その銘文に「我が大王、世間は虚仮仏のみ真、と告りたまわく」とある。

 

黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」の最後に書かれているように、

「世間虚仮唯仏是真」は蘇我馬子に疎外された晩年の侘しさが実に染み出ている

とある。

 

まさに、厩戸の目指した理想と現実のギャップに悩み苦しんだのであろう。


最後に、斑鳩宮の鳥観図を見てみよう。

 

法隆寺を中心に北側方面の鳥観図では、法隆寺手前にある大和川に矢田丘陵の左側から竜田川が流れ込み、丘陵の右側から富雄川が流れ込む。厩戸の時代は、斑鳩宮は広く開放された感じがする処に作られたことが理解できる。

今度は、法隆寺の南方方面の鳥観図。

 

法隆寺から飛鳥まで平易阿が続き、右側の手前が二上山、その先に金剛山など雄大な景色が広がっている。いい所だなと思う。