黒岩重吾「天翔る白日 小説 大津皇子」


初出1983(昭和58)年11月中央公論社、文庫本1986年6月中公文庫。36年前の本。

 

この本は、壬申の乱から7年後の679(天武8)年5月に天武天皇が吉野離宮で6人の皇子(草壁、大津、河嶋、高市、忍壁、芝基)と鵜野讃良皇后と共に行った「吉野の盟約」から始まり、686年10月25歳で謀反の罪で死刑に至る約9年間の大津皇子の生涯を描いている。

 

「天翔る白日 小説 大津皇子」は、黒岩重吾の「中大兄皇子伝」、「天の川の太陽(壬申の乱)」、「茜に燃ゆ 小説額田王」と組み合わせて読むと、天智大王、天武天皇、持統天皇、草壁皇太子及び大津皇子のそれぞれの観点から古代史実のなりゆきが分かってくる。当然、小説なので史実の間を黒岩重吾独特の文才で縫い合わせており、飛鳥時代全般について理解が進む。

 

また、現在読んでいる「闇の左大臣 石上朝臣麻呂」もこれら4冊と合わせて読めば、飛鳥から奈良時代へのつながりの理解にもなりそうだ。

 


ここで、「天翔る白日」にある登場人物の相関図は天智と天武とそれぞれの妃や皇后との関係を示している。

 

そこで、この相関図を参考に、天武~天武に至る家族構成?をもっと分かりやすくした相関図を作成した。

 

図中の紫□で示した人物が「吉野の盟約」時の6人の皇子である。

ちなみに、中大兄皇子(天智大王)の妃として、本の相関図にはないがこれまでの黒岩説に則り実妹である間人皇女との間を赤色二重線で示した。

しかし、これを見る限り、天智大王には9人(額田王を入れると10人)、天武天皇には11人の妃がいたことになる。また、天武は姪にあたる実兄の娘(大田皇女、鵜野讃良皇女、新田部皇女、大江皇女)を妃としている。

 

また、天智、天武共にその妃の家系を見ると、采女に手を付けること以外は戦略的な婚姻であることが分かる。

 

これだけの家族構成を持っておきながら、次の天皇や皇太子候補をたてる際に問題がおきないはずはない!


ここで、小説に登場する大津皇子と、皇后・草壁皇太子殺害計画を策略する重要人物として、上図の左下にある御方皇子(母系不明)がいる。

 

小説の最後に、御方皇子は「日本書紀」からは抹殺され、正史である「続日本紀」は御方の実在性を濃厚にほのめかしていると書かれている。それによると、747年(天平19年)聖武天皇が勅した内容を参考にすると、

......御方大野の父は天武朝の皇子であったが、微過により、皇子の位を剥奪、退けられたというのだが、皇子位剥奪は大変な重刑であり、微過などではない。大津の片腕として謀反の計画に協力した唯一の皇子に違いない。......

 

なので、本小説で出てくる策略家・御方皇子と大津皇子の結びつきを小説に描かれたものと同じと考えておく。

 

しかし、天武没後、大津皇子が剃髪して僧になる挨拶の際に、御方皇子が草壁を、大津皇子が皇后を分担して殺害し、天王即位を宣言する作戦をたてたが、決行日の前日に大津が親友・河嶋皇子に計画をリークしてしまうことで謀反の罪にはまってしまう。

 

大海人皇子が近江大津宮を脱出するシーンと一部似ているが、如何せん仮に殺害が計画通りに成就しても大海人皇子とは異なり支援者が少ないことから即位後に天皇になれたかは疑問が残る。