森浩一「敗者の古代史」再読18章 大津皇子と高市皇子の運命


672年7月の壬申の乱が大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位した。即位から14年後の686年に崩御した後、鵜野讃良皇后(持統天皇)とその子・草壁皇太子の命を狙ったとして謀反の罪で大津皇子は絞首刑となった。この辺は、黒岩重吾「天翔る白日 小説大津皇子」の物語を思い浮かべる。

 

一方、大津皇子にとって異母兄になる高市皇子(長屋王の父)は、壬申の乱で主戦の将軍として活躍し、鵜野讃良皇后(持統天皇)派である。その後は、690年(持統4年)太政大臣として藤原京造営に貢献したが696年(持統10年)に謎の死を迎える(と言うか、生没年から42歳である皇子が、どの本を読んでも「後皇子尊薨ず」だけでは確かに変だ)。


この18章では、高市皇子、大津皇子、草壁皇子など「皇子だらけ」なので、再度人物相関図を示した。


大津皇子の墓は、現在読んでいる黒岩重吾「闇の左大臣 石上朝臣麻呂」の中にも出て来る。その場所は持統天皇が決めた二上山の山麓(詳細は不明)。冬の日に飛鳥から眺めると二上山は西方浄土の入り口のように見えるようだ。

 

ここで、二上山は古代史によく出てくる場所なので、改めてグーグルアースで調べてみた。

 

手前が飛鳥板葺宮跡であり、概ねそこから西側を見た場合、二上山の雄岳が右側、メス岳が左側にあり、もしかすると冬の落日はこの間に落ちるのだろう。一度見てみたいものだ。

 

「大津皇子の墓」をグーグルアースで調べると、二上山の麓というよりも雄岳頂上から真東に50m程度のところだった。

高市皇子の墓は最近の調査結果のようだが、二上山から見て東北の香芝方面にある上牧久渡古墳群にある二号墳のようだ。