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93歳の義母を見舞う


5月15日(日)から5月17日(火)まで二泊三日の旅程で、入院中の義母を見舞いに行ってきた。

 

以前から家内独りでも元気なうちに見舞いに行くように話をしていたが、長女家族の孫たちの面倒に手を取られて中々行けなかったのも事実。五月の連休を終えたら見舞い行こうと計画していたところ、今回名古屋の義兄もこの週に見舞いに行くという連絡があったため二人で行ってきた。

 

入院したのが4月12日だったようで、ちょうどかれこれ五週間。肺に水が溜まり発熱したことが入院の理由だったが、その水もなくなり発熱が収まった。しかし、義姉さんからの電話では二週間ほど前から食が細くなり見舞い時点では噛むことや飲む見込む筋肉が衰え全く取れていない状態。一応入院の原因となった肺の水もなくなったこともあり、病院棟から療養棟への転移の話があったのが里帰りした次の日だった。

 

またコロナの影響で面会できないがラインのビデオ動画で面会をさせてくれるということで、その日名古屋からの義兄を六日町駅でピックアップして、義姉さんと四人で面会に行った。

 

ビデオの先に現れた義母の様子は、ほとんど眼が開けられなかったが寝たきりの状態だった。しかし、四人で声をかけると少しは分かったようで最後には手を振った。これはまだ食べることも無くなって歩ける状態でもなく、療養棟への転院もやむなしとの考えに至った。


の日にやはり四人で転院の説明と承諾の旨を伝えに午前十一時に再度病院に行った。しかし、話の途中で特別の理由により、義姉だけが直接の面会を許され、急遽説明を中断して面会に向かう。既にモニターがつけられ、本来できないが同居者一人だけ面会という条件を考慮すると、先がないということになる。病院に向かう車の中では、転院して食も歩行もある程度のリハビリを受けてから家に帰えそうという話になったが、それどころでない状況であることを認識させられた。

 

そんなこともあり、実家に四人で戻った後、長男の義兄と五人で今後のことを話あった。お互いにいつでも連絡しあえるようにすることとそれなりの準備をしようということになり、後ろ髪をひかれる思いで自宅に二人で帰宅した。

 

先ほど、一応心の準備もかねて喪服一式を準備した。

藤原地区の鎮守様にて

隣には銘酒「八海山」に使っている「雷伝様の水」汲み場がある.

「雷電様のみず」の言われ

【看板の文言】

雷電様の水。水汲み場

その昔度重なる落雷と干ばつによる災害に困り果てた村人が老樹森然野地。現在その下に鉾羅(ほこら)を建て雷神を祀ってより、落雷も治まり干ばつもなくなったと伝いられているおります。

 

そしてその傍らから懇々と清水が湧き出てまいりました。その後この水はいかなる大雨が降っても濁ることなくどんなに日照りが続いても常に変わることなく一定量が湧出されております。

 

今から一千三百年程前天平七年(西暦735年)に聖武天皇の祈願道場として現法音寺を創建した藤原麻呂公(藤原不比等の四男、京家の祖)が不慮の病(天然痘)にて天平九年に死去。その訃報を受けた夫人が亡夫菩提のため薙髪(ちはつ)し、この地に来たり妙音比丘尼(みょうんびくに)と称し一生を捧げたと言う。その比丘尼はこの霊水を引いて××水に供え畑に水を引いて首楽を作り、白山神社を奉祀州るなど数々の素晴らしい業績を後世に伝えております。その頃よりこの水を飲むことにより、願望が成就。天下一美味しい水として、近郷近在より水を汲みに訪れる人が後を絶たなかったと言われています。

 

そこで、今私どもは神威厳粛の水を集落こぞってこの水祖神に奉納させていただきました。水源地まで無理して出向く必要はありません。日本一の雷伝様の水はこの神聖な水祖神からお汲み戴けるようになりました。

 

平成十四年十月(2002年) 藤原区


六日町周辺の雲海.

結婚して何度も実家にお邪魔したが、初めて早朝の雲海を眺めることができた!

八海山の里にある蕎麦屋の前にあった菜の花畑.

五月連休明け直後辺りは色々な花が満開時期を迎えていた.

義母が入院している斎藤記念病院の入り口から八海山を望む

上原からの八海山の眺め.

今年はやはり雪が多かったため、八海山周辺の山々には雪が多く残っていた.

娘から頼まれた「流れ梅」販売店の前から八海山の眺め.