高橋克彦「天を衝く」


橋克彦の歴史小説の中で「陸奥三部作」と言われる「火怨」・「炎立つ」・「天を衝く」の最後「天を衝く」を読みだ。作品は、2001年10月講談社が初出で、2004年11月に講談社文庫から全3巻で発表されたもの。

 

主人公・九戸政実について全く知らなかったこともあり、読書と並行して人物像を調べてみた。

 

一言でいうと、本のサブタイトルにもあるように、「秀吉に喧嘩を売った男」。なので、南部家の当主問題から展開して秀吉に喧嘩を売る様子を全三巻を通して読んだ。5月から6月にかけて、いろいろと私用が混みいったこともあり、三巻読破にえらい時間がかかってしまった。

 

また、高橋作品としては珍しく関連地図もその家系図もないこともあり、本を読んで登場する場所はグーグルマップで検索しながらの読書となった。また、南部氏系図によると源氏に辿り着くことも含めて、これまでの作品と合わせて読むと興味深く読める。


て、高橋作品の面白い点は、幾つかの時間軸上の史実を洗い出して、人物像をもとに史実と史実の間を見事に繋いでいること。今回も主人公の九戸政実に関するWikipediaに書かれている史実をどこまで信じるかは別として、手っ取り早く史実を整理整頓しておくことにした。

 

また、各巻の内容を下の史実の間に赤字で記載した。

 

【九戸氏の勢力拡大

九戸氏は、南部氏始祖である南部光行建久2年(1191年)に地頭職として陸奥国糠部郡に入部して以降、その六男・行連が九戸郡伊保内(岩手県九戸村)に入部して九戸氏を称したとされている

 

 

室町幕府からは南部宗家と同列の武将と見られていた。政実は行連から数えて十一代目にあたるとされ、武将としての器量に優れており政実の代に勢力を大幅に広げた。永禄12年(1569年)、南部晴政の要請により、安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取などに協力し、その勢力を拡大している。そして斯波氏の侵攻に際しても石川高信の支援を行い、講和に貢献した。

 

【晴政・晴継の死と、信直との対立

南部氏二十四代・晴政には男子がなかったため、永禄8年(1565年)に石川高信の子(晴政にとり従兄弟)である信直を、長女の婿養子として三戸城に迎え世子とした。その後、晴政は次女を南部一族の中で有力者である九戸政実の弟・九戸実親に嫁がせる。しかし元亀元年(1570年)晴政に男子(後の南部晴継)が出生し、更に天正4年(1576年)信直の妻が没する。信直は嗣子を辞して三戸城から出るが、晴政は信直への不信を抱き続け晴政ならび九戸氏の連衡信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の間で対立していく。

 

天正10年(1582年)、晴政が病死すると南部氏はかつての世子・信直実子・晴継の間で後継者を巡る激しい家督争いが始まる。晴政の跡は実子の晴継が継いだが、父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまう(病死説有り)。

 

-----「天を衝く」第1巻 晴継の暗殺まで

 

急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、晴政の二女の婿で一族の有力勢力である九戸実親と、かつて晴政の養嗣子でもあった信直が候補に挙げられた。評定では実親を推す空気が強かったが、北信愛が事前に他の有力勢力・根城南部氏の八戸政栄を調略し、結局は信愛、南長義らに推された信直が後継者に決定した。 政実としては弟を差し置いて、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還する。

 

【九戸政実の乱】

天正14年(1586年)には信直に対して自身が南部家の当主であると公然と自称するようになる。このような政実の姿勢は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の「奥州仕置」後も変化はなく、ついには天正19年(1591年)1月、南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5,000人の兵力をもって挙兵した。

 

-----「天を衝く」第2巻 九戸政実の挙兵まで

 

もともと南部一族の精鋭であった九戸勢は強く、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、信直は苦戦した。そしてとうとう自力での九戸討伐を諦めて秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請するに至る。秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始しさらに小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季・大浦為信が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回った。

 

同年9月1日、討伐軍は九戸氏所領への攻撃を開始する。怒涛の勢いで迫る討伐軍は翌9月2日に政実・実親の籠る九戸城(九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害)も包囲攻撃を開始。善戦した政実であったが、浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者に立て、「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた。九戸政実はこれを受け入れて、弟の九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと、揃って白装束姿に身を変えて、即ち出家姿で再仕置軍に降伏した。

 

浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、助命の約束は反故にされる形で、

 

  • 九戸実親以下の城内に居た者は全て二の丸に押し込められ、惨殺され火をかけられた。
  • その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。

小説ではこの辺りの史実?と異なる形でファイナルを迎える!

 

政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。

 

-----「天を衝く」第3巻 薩天和尚の九戸政実への供養まで(最後のクライマックスはここでは記載しない)

 

この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部信直に引き渡した信直は南部家の本城として三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた

 

この乱以後、豊臣政権に対し組織的に反抗する者はなくなり、秀吉の天下統一が完成する。また南部氏はこれをきっかけに蒲生氏との関係を強めており、蒲生氏郷の養女である源秀院(お武の方)が、南部利直に輿入れしている。戦国変わり兜の一つとして有名な「燕尾形兜」は、この時の引き出物として南部氏にもたらされたものである。

 

また氏郷と浅野長政は信直に本拠地を南方に移すことを勧め、これが盛岡城築城のきっかけとなった。なお九戸政実の実弟の中野康実の子孫が中野氏を称して、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた