北方謙三「絶海にあらず」


2005年6月中央公論新社刊(新聞掲載は2003年から)から初出。2008年6月中央公論新社から文庫本。2003年から数えると、19年前の本。

 

この本は、6月いっぱいのDIYと義母への対応、7月前半は義母の49日法要、選挙関連バイト、塾への対応などで、2冊読むのに1か月以上かかってしまった。。。

 

主人公は藤原純友。平将門とほぼ同じタイミングで反乱を起こした男。悪い奴という印象があったが、この本も乱という史実の前から純友という人物をとらえ、乱を起こす背景を描いている。

 

今回も藤原純友の生涯をWikipediaから抜粋して青文字で示した(赤字は、コメント)。

 

藤原氏の中で最も栄えた藤原北家の出身で大叔父には藤原基経がいるが、早くに父・良範を失い、都での出世は望むべくもなく地方官となる→地方官になる背景はもっと興味深い

 

当初は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあった。しかしながら、元名帰任後も帰京せず伊予に土着する。承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり、

  • 伊予(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばした。

とあるが、小説ではこの逆で、「やがて瀬戸内海に勢力を伸ばしてから。。。」ではなく、最初に内海の航行を管理して、周辺の水師と手を組みながら宇和島の日振島方面と玄界灘に勢力を伸ばしている。

 

関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には

  • 純友は部下・藤原文元に摂津国須岐駅において備前国・播磨国の介(備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には讃岐国の国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った

 これが史実なら、小説では「純友は部下・藤原文元に。。。」ではなく、純友の乱に便乗した藤原文元が勝手に暴れて。。。」となっており、純友とは無縁の扱いにしている。

 

  • 朝廷は純友追討のために追捕使長官・小野好古、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実による兵を差し向け、天慶4年(941年)5月に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。

とあるが、これが史実とすると、小説では、またまた逆の設定で、追捕使の軍により壊滅させられたのは、純友が大宰府との闘いに便乗し、大宰府を荒らしまわった藤原文元の率いる兵士たちが壊滅させられ、純友らは大宰府の戦いの後に速やかに五島列島に逃れている。

 

純友は子・重太丸と伊予へ逃れたが、同天慶4年6月に今日の宇和島で殺されたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれているが、資料が乏しく定かではない。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶ったともいわれている。

 

将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。また、純友の合戦の様子は『純友追討記』として、追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されている。

 

藤原純友を祀った神社として、現・岡山県松島の純友神社、現・愛媛県新居浜市の中野神社がある。