北方謙三「道誉(どうよ)なり」


初出1995年12月中央公論社、文庫初出1999年2月3日。

 

先ず、道誉(どうよ)は佐々木道誉。六角佐々木の系統。

 

いつものように、グーグルマップで「佐々木道誉」で検索したら、生まれ故郷である滋賀県坂田郡山東町(現  滋賀県犬上郡甲良町)のHPがあったので、以下引用させていただく。

 

佐々木道誉(1296~1373) 勝楽寺

今から約700年前に滋賀県坂田郡山東町(現米原市)に生まれた道誉は、41歳の時甲良町勝楽寺に移り住み勝楽寺城を築いた

理由は京都の事変にすぐ応えるためであり、勝楽寺城は戦闘体制に適した土地であったからだ。

 

確かに、勝楽寺の位置づけを見る限り納得がいく!

 

以降、鎌倉幕府の滅亡と南北朝、足利尊氏の室町幕府擁立に 活躍し、78歳で生涯をとじるまで勝楽寺を拠点とした。

 

■エピソード1  ~ バサラ大名といえばこの人 ~

バサラ=婆娑羅とは、室町時代の流行語で「遠慮なく勝手気ままに振る舞う、派手な人」のことをいう。

 

この時代道誉はどんちゃん騒ぎを好み、自由奔放でバサラ大名の典型といわれていました。

 

特に京都の妙法院事件は有名である。

 道誉の部下がこの寺の紅葉の美しさに思わずその枝を折ったことを理由に、僧に痛めつけられた。

これをきいた道誉は怒り、自ら200余りの兵を引きつれて、寺に火を放ったのである。

 

■エピソード2  ~ じつは教養ある文化人、道誉 ~

バサラ大名といえども道誉はけっして無節操に勝手な振る舞いをしていたわけではない。

 

一見自由奔放に見えても道誉の行動には一本の筋が通っていた。 そのひとつが足利尊氏に対する忠実心で、もうひとつは日本の古典芸術・茶道、華道、能楽、連歌などを奥深く極めたことである。

 

歌集では最初の連歌撰集に道誉の81首が入り、茶の世界では道誉が選んだ茶器の中には近世になって信長や秀吉によって受け継がれた名器がある

 

また能楽や狂言の保護と育成に力をそそいだ。バサラ大名道誉は、後世日本芸能の元祖といわれる教養文化人でもあった。  

津城32万石余の大大名となった名築城家