北方謙三「楠木正成」


出2000年6月中央公論新社、文庫本初出2003年6月25日、9刷2011年10月30日。

 

方謙三が扱った「南北朝時代」の最後に書かれたもの。最後に楠木正成をもってきているところがにくい感じである。

楠木正成はあまりにも有名である。グーグルアースで「楠木正成」で検索すると、10件出てくる。これに有名な千早城や最期を迎える湊川も含めてマークして、金剛山から河内、摂津方面を鳥瞰したものが下図である。

 

 

のごとく、Wikipediaの記事のうち、楠木家の菩提寺である観心寺を調べてみた。金剛山の西北にある寺で、奈良時代以前の役行者が創建したとある。

 

 観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の遺跡本山の寺院。山号は檜尾山。本尊は如意輪観音。日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』の構成文化財のひとつ。

 

歴史

伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創。その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る。なお、北斗七星を祀る寺は日本では観心寺が唯一である。

 

弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから、奈良時代草創説もあながち否定はできない。

 

・・・中略・・・

 

観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。建武元年(1334年)頃、後醍醐天皇により楠木正成を奉行として金堂の外陣造営の勅が出され、 正平年間(1346年 - 1370年)に完成した。正平14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となっている。また、境内には後村上天皇桧尾陵がある。

 

境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた未完成の建築である。伝承によれば楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討死したため建築が中断され、そのままになったという。なお、現在あるものは再建されたものである。討死した正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている

 


うひとつ、正成に関係する話として本にも出てくる。それは観阿弥という能文化を室町時代に創出した人物。物語では、楠木正成の妹が産んだ子供となっている。これもWikipediaで調べてみると、その記述があった。

 

観阿弥(かんあみ/かんなみ 觀阿彌陀仏 正慶2年/元弘3年(1333年) - 至徳元年/元中元年5月19日(1384年6月8日))は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師。息子の世阿弥とともに、いわゆる能を大成した人物である。

 

観阿弥の出自

観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。

 

また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。

 

一方、1962年(昭和37年)三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見された播州の永富家文書を傍証に、この記載を真とする意見もあり、1975年に永富家子孫によって、伊賀市に観阿弥の妻(世阿弥の母)の彫像が立てられた。

 

しかしこの文書の信憑性を巡っては議論が分かれており、この説は研究者の間では広く受け入れられているとは言い難い。しかし梅原猛は、『うつぼ舟II 観阿弥と正成』(2009)で観阿弥と正成の関係を主張し、表章に挑戦した。表はこれを受けて『昭和の創作「伊賀観世系譜」―梅原猛の挑発に応えて』(2010)を上梓し、詳細に反論した.

 

とのこと。また、この話は「道誉なり」で多くが語られている