今まで何も疑問に思わなかったことが急に気になりだした。
歴史小説を読んでいると、「閏月なので現在でいう何月頃」などと書かれていることに遭遇する。最初は読み飛ばしていたが、最近このあたりが気になり始めた。
このページでは、最近あれ?と思ったことを調べている。
(3)暦(こよみ)関係 工事中
(4)お茶碗一杯のごはんの量と田んぼ面積の関係 工事中
(5)米と麦 工事中
出雲神話の背景について梅原猛の「葬られた王朝」などを熟読していると、いつも思うことがある。
それは、なぜ大和の地がその昔に皆が求めたか?という疑問。今、地形図を見るとオオクニヌシだろうが神武帝だろうがわざわざ大和の地まで行かなくても他に国を興すなら色々あるはずだが。という疑問である。
そこで、地理院地図による地形図と古事記などに出ている神の社や寺院、都の位置の信ぴょう性などを簡単に検証してみる。
番外:地理院地図は便利だ!
調査する観点は、現在の地形図において、神話で語られるもしくは史実として存在していた神の社・お寺・都が建てられた場所が、昔の海や河川、またはそれらが枯れた沼地ではないことを見ていこう。前から、古墳がある位置は地形的に見て沼地などではないところにあると思っていたので、改めて河内や山背、大和の地形を概観してみる。
代表的な場所は4カ所とし、地図にマーキングした。
次に、国土地理地図で標高を描いてみた。凡例にあるように濃い青が標高5m以内、次の濃い青色が10m以内である。
この標高10m以内の青色部分を概観すると、
そこで、この部分をズームインしたのが下図である。
難波宮、四天王寺、住吉大社、仁徳天皇陵(百舌古墳群)ともに標高5m~10m以内にあることが分かる。これら4か所は「沼地」ではないようだ。だから、古代・古墳・飛鳥時代にもその土地は高台であったことになる。う~~ん!なるほどと思う。
また、河内から大和に行く道として、「龍田古道」がある。この道の案内図として、近鉄が発行した「河内から大和へ・竜田古道」を参考に地理院地図で描いてみた。
近鉄マップでは起点を河内国分駅、終点を信貴山駅にしているので、それに沿って古道を赤線で示す。大和川の脇に沿う道になるが、古代・飛鳥時代はこの大和川が氾濫することから水の神様・廣瀬大社を、またこの地形では強い風も吹いていたと思われるので風神様を龍田大社に祭っている。水と風の神様をこの地に祭ることは、農業収穫に大切な神様ということになる。
上図の真ん中あたりにあるのが峠八幡神社。地形からみると、大和から来ると峠越え前、河内から来れば峠超えを終えた地点になる。また、その右側には古代・飛鳥時代ではないと思われるが、河内と大和往来の道であることから龍田関もあったようだ。
龍田古道全体をみれば河内の日下に着岸して信貴山を乗り越えるより、確かに龍田古道は労少なく往来できる道であることが分かる。確かに、そうだよね!
以上のことから、大和の国は上図のように、河内の港に着けば後は生駒山を乗り越えるか、今の大和川流域を東上すれば簡単に広大な大和の国に到着できることが分かる。また、大和の国の地形は、生駒山や三輪山に囲まれ、防衛上も有利な土地であることから、オオクニヌシである出雲族も東征しながら大和の国を発見したのだろう。
ところで、大和の国であった現在の奈良県桜井市に出雲なる地域があることは中々興味をそそるものだ。
一方、伊勢志摩地方の伊勢神宮も最初の最初の図のように濃い青色付近にあるので、下図に拡大してみる。
ことが分かる。
ということで、地形図をもとに古代から現在まで続く神社仏閣、遺跡などの事例として違う場所も同じ観点で調べてみる。
出雲神話も読んだので、出雲周辺の地形を概観してみる。最初は、伊豆から白兎神社までを概観してみる。
場所としては、古事記に出てくる主な場所や銅鐸・銅矛などの遺跡とする。
標高5m以内(一番濃い青)が海岸近傍にあるのは良いとして、今の宍道湖から出雲大社に渡る地域はほとんど5m以内である。
しかし、この地域を避けるように、上記の旧跡や遺跡が存在していることが分かる。白兎神社も拡大してみる限り、標高5m以上のところに建てられている。
出雲周辺を拡大すると、
以上、大和の国を古代の人たちが求めた土地であるか、地形をもとに探ってみた。「沼地」などのジメジメした土地や河川氾濫するような土地は古代からも人が済まなかったという当たり前の話と、確かに大和に古代の人たちが集まり、国を興してゆく背景も何となくだが理解できたようだ。
我が国の中央集権化(律令化)にむけて推古天皇から持統天皇までの約100年間の飛鳥時代は、大王家と豪族との権力争い、新しい仏教文化の取り込み、また国際化のために朝鮮・隋唐との外交努力がはらわれる時代。関係本を読めば読むほど深みにはまる。
今回、梅原猛「飛鳥とは何か」、黒岩重吾「古代史への旅」など読み、
を先ず調べて、飛鳥時代の
推古天皇から持統天皇までの皇居(宮)の位置を確認してみた。
先ずは、古道と宮の位置の概観を示す。
この図の外には、飛鳥時代約100年間のうち、
を除くと、飛鳥と大和の三輪山に近いところに宮がある。
一方、飛鳥時代の約100年遡った継体天皇からは、緑色アイコンのように三輪山近くに多く集まっている。
この近辺を拡大してみると、
梅原猛「飛鳥とは何か」で著わしているように、
に大別できるように思える。
孝徳天皇は難波宮へ、天智天皇は近江大津宮に思い切り離れる!
蘇我馬子の邸宅は、2005年に発見された明日香・島庄遺跡の邸宅跡のようだが確かに現在の明日香村役場の近傍。豪族が権力を高めたら”傀儡”天皇は近くに置かれたはず
という流れが見える。
特に、小墾田宮の位置の推定では梅原が力説しているように、
飛鳥時代は朝鮮からの使節が河内に着いた後に大和川を遡り辿り着くところが横大路の北側辺りというのがポイント。黒岩重吾「古代史の旅」にもあるように、古代に大和川や初瀬川などの合流点である海石榴市(つばいち)が小墾田宮推定地からすぐ東方にある。三輪山の山ろくでもあり、また山野辺の道の入り口でもあり、確かに人が多くまる市がたったのであろう。推古天皇以前の宮も海石榴市の近くにあるしね。昔から、人が多く集まる場所だったのでしょう。
なので、
小墾田宮は、河内から古道もつながり、かつ大和川遡っても来れるこの近辺(近鉄線・大福駅北側)にあったと記憶することにしよう。←なるほどね!
さて、これも参考にして、また仏教伝来からの仏教の話にもどることにする。
グーグルマップでは、飛鳥時代とその100年前までの宮を歴代ごとに示したので、各代の宮を凡例から順番にクリックすると、移り変わりが分かりやすくなるよ。