(1)2014年版 栃木県矢板市近郊の話

矢板周辺の地形的特徴と古墳・祭神との相対的関係性による米と地酒が旨い理由の独学的勝手気ままな考察

 

- はじめに -

 

 

単身赴任という非論理的な出稼ぎも15年目に入ろうとしている。小学校4年生だった娘が1歳半の孫を連れてくると時の流れの早さを知る日が続いている。冷静に考えてみると、自宅購入から20年を経過するが4年も住んでいない。これは一体どういうことかという考える時間もなく過ごしている。一方、出稼ぎを積極的にメリットと考えれば、矢板という土地に居る巡り合わせをもっと大切にしたいとO型固有の考えに至った。そこで、本論文では矢板の土地という地形的特徴を整理した上で、古代まで遡り独学的かつ勝手気ままに地酒と米が旨い理由を明確化したものである。

- 栃木県矢板市 -

 

 矢板市の説明に入る前に地図上で紹介する。ざっくり言うと、関東平野の北端。それだけに先ず生活をするために矢板自動車学校に入り3週間強で卒業して4週間目で免許書取得。6週間目に車を買った。

 

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- 矢板周辺の地形的特徴 -

(鮨・江戸政とかスナック夢とか極めて局所的特徴は含まない)

 

 

下図はその矢板市を中心に、大田原、喜連川など近辺の古墳、神社を印でマーキングした地図である。この内、幾つかのものは以下の頁で説明するが、矢板の地形と神社も含めた史跡の位置の関係を見ると矢板という住環境が理解できるような気がする。また、考察にあたり神社を入れる理由は、先ず縄文時代、弥生時代から現代まで連綿と続く神様への祈りという人間の必然的かつ自然発生的行動があること、また古代の人々が祈りをしていた神様のご利益を調べるとその土地の特徴を勝手気ままに推察できるからである。神様も八百万の神(ヤオヨロズノカミ)と言われるように自然現象からはじまり様々な神様がおられるので、丁寧に調べることでその土地で祀られている理由が分かる。ちなみに、雄大で奇麗な高原山を見るとは、”高”と”原”の間に”天の”を入れると”高天の原”となり、古事記に出てくる神話の世界にワープしてしまいそうになる。

 

この地図をザックリと概観すると、関東平野の最北端となる平地に大きな川があるのが矢板という土地の特徴である。矢板は東側は那珂川、西側は鬼怒川に挟まれ、那珂川に流れ込む支流が箒川。また、箒川より少し南にある内川は矢板市内を流れており喜連川地区あたりで荒川と合流して、これもやがて那須烏山市の南方で那珂川に合流する。これらの川は高原山、塩原や那須の山々からの沸き出し流れる清い水である。

 

 

 これらの川との位置を見ると支流の近傍に古墳や神社があるのが分かる。また、鬼怒川周辺にも幾つかのがある(※)。平地と水が豊富な土地柄が古代から恵まれた稲作環境を人々に提供してくれたのだろう。今でも楽しめる矢板の酒と米の旨さはこの土地柄にあるものと改めて認識した。この様な地形的特徴をもって、以下矢板周辺の幾つかの史跡の説明をしてみた。

 

※:★印は主に矢板周辺に点在する古墳、神社やその他史跡の位置を示したもの。鬼怒川や那須烏山周辺も同じ調査をすると恐らく多くの★が出現すると思うが、今後の楽しみにし割愛した。


- 矢板周辺の古墳 -

 

そもそも古墳とは何でだろうか?河内にある仁徳天皇陵(大仙古墳)に見られるように、天皇のお墓としか認識していかなった。ならば天皇が居た形跡のない矢板周辺に何故古墳があるのだろうか?

矢板ばかりではないが、よくよく周りを見渡せば、村のアチコチに集合したお墓群がある。その土地の祖先を子孫が大切に祀っているもので、同じ集落やムラで生活した人々は同じ土地に埋葬される。その中でもそのムラのリーダーのお墓を大きく造っても不思議ではない。つまり、何も天皇でなくても古墳というのは各地で自然発生的に造られても何もおかしくはない。

矢板周辺で一番古いのは、第1表脚注1にあるように、箒川と那珂川が交わる近郊にある前方後方墳・駒形大塚古墳であり西暦275年頃に造られた。西暦275年という年代は、邪馬台国の女王卑弥呼が248年死去、266年に卑弥呼の娘と言われる台与(トヨ)が女王になり、中国の晋に使節を派遣したころである。

脚注1:なすの風土記の丘資料館発行:2013年度講演、”第21回特別展 われ、西より来たりて那須の地を治める!”より引用。

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規模は小さいが、奈良県の三輪山の前にある前方後円墳の箸墓古墳と20-30年程度の遅れで築造されている。昨年秋、那須郡那珂川町小川にあるなす風土記の丘・資料館の講演会で聞いた話では、稲作技術を持った古代の人々は、第1図に示したように那珂川が太平洋に流れ出る茨城県那珂湊の河口から那珂川を遡り広い平野と豊富な水のある那珂川町の土地にたどり着いたようだ。3世紀の邪馬台国(ヤマタイコク)ができる遥か前の話である。

なす風土記の丘資料館近くにある5つの古墳、駒形大塚古墳・吉田温泉神社古墳・那須八幡塚古墳・下侍塚古墳・上侍塚古墳がある土地に行ってみて分かったことは、ヤマト、河内などの古墳とも共通する立地条件である。その共通性とは広い平地と豊富な水(川)があること。当然と言えば当然で、3~6世紀終わりと言われる古墳時代であるから稲作環境に適した場所が生活の営みのために選ばれている。ちなみに、海に近い河内や奈良盆地は大部分が海、沼、湖という古代の地形であったが古墳がある場所は一定の高さの海抜がある地帯(平地)である。那須近辺の箒川と那珂川が交わる土地に、はるかヤマトや東海系から房総半島を太平洋側に海上ルートで回り那珂川河口へ行き、そこから遡ってまほろばの土地に到達したのだろう。そう考えると、この矢板周辺の那珂川流域というのは古代から人々が生活し易い土地ということになる。同様な立地条件である鬼怒川・渡良瀬川流域にも多くの古墳群があることからも弥生時代の人々が求めた土地の様子が良く分かる。

会社のすぐ横にある木幡神社も古墳である。古墳の上に神社が創建されている。8世紀後半の坂上田丸麻呂(サカノウエタムラマロ)が東北の蝦夷退治にあたり木幡神社に戦勝祈りをしている頃から約4~500年も前に矢板稲作を中心にした人々が居てそのリーダーが古墳に埋葬されたことになる。

 

水田稲作が中国から古代朝鮮を経て倭のクニグニに広がる時期として、国立民族歴史博物館が2003年に発表した炭素14年代測定法の結果によると第2図にあるように、紀元前1世紀には三浦半島の赤坂遺跡まで稲作技術が伝わっている。

三浦半島から那須地区まで伝わるのに100年ほどかかったとしても那珂湊の那珂川河口から遡って来る訳だからおかしくない。となると、矢板の土地に水田稲作が伝わってきたのは紀元後1世紀頃になる。安定した稲作で生活を営めるようになるまで 10世代とし、1世代あたり20年とすると紀元1世紀に200年を足した3世紀頃になる。先ほどの駒形大塚古墳が西暦275年頃に造られたとすれば、これによく整合する。矢板の土地はこの頃には稲作で人々が暮らし、いくつもの集落ができた住み易い土地、まほろばであったことになる。またその集落のリーダーを埋葬し祭ったのが木幡古墳(神社)なのであろう。

ちなみに、古墳の縦と横の比率は概ね24対15という設計仕様であることと、矢板市遺跡地図による古墳を列記しておく。多分、何気なく通っている通勤途上か皆さんの自宅のすぐ近くに古墳があるのではないか。

 

・木幡神社古墳 木幡

・塚原古墳群  木幡字下塚原 河岸段丘

・ミノワ古墳群 石関字ミノワ 丘陵頂部

・熊野大社古墳群 乙畑字大登野 丘陵

・太白神社古墳群 越畑字堀内 丘陵端

・登内古墳群 上太田字登内 河岸段丘

・勘右衛門林古墳群  片岡字勘右衛門林 丘陵

・石上神社裏古墳 大槻字明神山 丘陵上

・本町権現山古墳 本町 平地 →なんと!スナック夢の近く

・花立古墳 石関字花立 丘陵頂部

・山田・外郷横穴 山田 丘陵崖

・立野古墳 東泉 丘陵

・番匠峰古墳群 塩田 丘陵

・番匠峰古墳群1号墳 塩田 丘陵

 


- 矢板周辺の神社 -

 

神さまが宿る社(ヤシロ)、つまり神社。本来、神様は目に見えないもので、山、海、木、岩などに宿る。”かんなびの里”という塩谷にうまいお酒があるが、かんなびは神奈備と書き、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域や、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)、鎮守の森や神体山を、また特徴的な岩や滝(例えば、那智の滝)がある神域などを意味する。

 

矢板周辺の神社を栃木県神社庁HPで調べると4社。これらの神社に祭られている神様(祭神)を紹介する。

先ず、ご存知、木幡神社。これはコハタと呼ぶのが許波多神社の本宮から勧請されたという意味では正解。

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この木幡とは元々京都府宇治市にある地名で山城(ヤマシロ)とヤマトとを結ぶ途中にある。ここに許波多神社がある。祭神は、正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツ_カチハヤヒ_アメノオシホミミ__ミコト)脚注2という舌を噛む長い名前の神様。もっと短い天忍穂耳命(アメノオシホミミ)でもよい。古事記によると、大国主神(オオクニヌシ__カミ)が一生懸命に地上の国、葦原中つ国を造ったのを天上の高天の原から見た天照大神(アマテラス_オオミカミ)が天忍穂耳命に、天降って中つ国を治めるよう命令した。しかし、下界は物騒だとして途中で引き返し、ママである天照大神の言う事を聞かなかった。しょうがないので天照大神は高御産巣日神(タカミムスビノカミ)と相談して建御雷神(タケ_ミカヅチ__カミ)と経津主神(フツ__ヌシ__カミ)を天降りさせて大国主神からやっと国譲りをさせた。天照大神は建御雷神らが平定した葦原中つ国に再び天忍穂耳命に降臨の命を下すが、今度は自分の息子の邇邇芸命(ニニギ__ミコト)に行かせるようにと進言し、邇邇芸命が天下ることとなった(天照大神の孫が天降りしたので、天孫降臨)。早い話、伊勢神宮内宮の祭神である天照大神がお母さんで、高天の原から九州の高千穂(と言われている地)に降臨した邇邇芸命のお父さんにあたる。

脚注2:正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)は、正しく勝つ、吾は勝つ。日が登る速さの如く勝つ。

   「オシホミミ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意。

 

大国主命(オオクニヌシ__ミコト)とはご存知、大黒様で出雲大社に祭られている神様。天照大神は高天の原という天のクニから葦原中ツ国(アシハラ_ナカツクニ)という地上のクニを造った大国主命にそのクニを渡せと乱暴なことを依頼する。一般にいう出雲神話の後半に出て来る天照大神が大国主神に国譲りさせる神話である。また、最後まで天照ママの言う事を聞かなかった天忍穂耳命は稲穂と農業の神さま。一見、根性無しの神様の様に思えるが、名前の凄さと農業にご利益を下さる立派な神様で矢板の土地には大事な神様である。

ここで、古代を調べてゆく時に大雑把な定義がある。古事記にある神話は実は現実に起きたことを都合のいいように後々書き換えていると言われている。しかし、古代を調べる時は、天照大神が岩戸に隠れる前後をターニングポイントとして前半は先述の国造りをした時代の人々を出雲族、後半がそのクニを頂戴と言って国譲りさせた人々とそれ以降の人々を天孫族として分け、二つの族を頭に入れておくと、意外と古代の出来事を時間軸上ですっきりと見えてくる。この定義によると、木幡神社の祭神である天忍穂耳命は天照大神の息子であるが後半に関係するので天孫族になる。

次に片岡駅に近いコリーナの近く(矢板市玉田)にある生駒神社、別名、勝善神社

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この祭神は豊宇気姫命(トヨウケヒメ__ミコト)。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神。伊勢神宮の下宮に祭られている神様で、天照大神が倭姫(ヤマトヒメ)によってうましクニ、伊勢の地に鎮座された後、天照大神の食を賄うために京都の丹後から伊勢に連れられてきた神様である。ある意味、木幡神社が伊勢神宮内宮、生駒神社が下宮に関係する神様であるから、先ず生駒神社を参拝し、木幡神社をその後に参拝すると伊勢神宮に行かずとも下宮と内宮を順番に参拝したことになる。また、豊宇気姫命は神話後半以降の天照大神に食で仕えることから木幡神社と同じ天孫族の神様になる。

関係するホームページを見ていたら、勝善神社と呼ばれるようになった社殿紹介があった。12世紀の76代 近衛天皇(西暦1139-1155)の御世に、白面で金毛の九つの尾を持つ狐が日本に中国から渡来し各地を荒し、住民は戦々恐々の生活を送っていた。天皇は第三王子の勝善親王に討伐を命じ、親王は兵隊を連れ玉田の里を本陣とした。親王は合歓の木の下でその使命を達成する方法を豊受姫命に祈願したところ、姫が夢枕に立たれ「槻の木を斧で切りつつ燃やせ」との仰せを受けた。その通りに行うと、悪さする狐はたまらず那須野原に飛行し、その後は写真1にある経緯で殺生石になったと伝えられているとのこと。九つの尾を持った狐の姿は那須塩原駅前ロータリーの喫煙場所に飾られている。

 九つの尾を持った狐の姿は那須塩原駅前ロータリーの喫煙場所に飾られている。

この勝善神社は生駒神社とも呼ばれているので、奈良県生駒市にある往馬(イコマ)神社から勧請されたのであろう。往馬神社は御神体を生駒山とする神社であり、生駒神社とも書かれ、祭神は産土神(ウブスノカミ)脚注3であり立派な社である。その土地やそこに住む人々を守護している神様であり、神話の神様とは違い、古くから信仰されてきた自然的な神様。こう考えると、玉田では元々生駒神社を土地に居られる神様として祀っていて、そこに勝善親王が本陣を引き九尾の狐を追い払った。もしかすると、この時に親王が玉田の里に豊受大神を勧請し、その後に玉田の人々が親王を讃え祀るために勝善神社と呼び変えたのかも知れない。前述に天照大神系だから天孫族と記載したが、親王が来られる以前に玉田に元々居られている神様なのでここでは産土神系としておく。この点は原始に近い神社(御嶽(ウタキ)の世界)を調べた結果、神様のルーツに近いと考えている。

脚注3:ある一族がある土地に移り住んで、自分たちの一族の守護神を祭る神社を建てたとすると、その神社は、その一族にとっては氏神を祀る社となる。その後、一族そろって氏神様のお祭りが行われる。年月が経って行くと特定の一族の守護神という立場からさらに進んで、その土地およびその土地に住む人々全体を守護するという産土神の立場になってゆく。時が経てば他のいろいろな氏の出身者たちが、その土地に定住していく。新参の人々も共に、その神社に参拝するようになる。そこで神社創建の頃に使っていた「氏神様」という言い方がそのまま受け継がれて、他の氏の人々も「氏神様」と呼んで参拝するようになる。産土神と氏神の神道上での定義の違いがあるが、大義としてその土地を守って頂いている神様と認識していても間違いはないだろう。ちなみに、森の鎮守の神様とはうまい表現である。

 

次は、ステーキレストラン・ピアノの近くにある塩竈神社

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本宮が宮城県塩竈市にあり、ここから勧請されたのであろう。矢板の塩竈神社のご祭神は本宮と同じく塩土老翁神(シオノオジノカミ)・建御雷神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツノヌシノカミ)。建御雷神と経津主神は上述のターンニングポイント以降の天照大神が高天の原から大国主命に国譲りをさせるために送った最後の使者であるから天孫族。塩土老翁神は、出雲族から天孫族に寝返りして道案内する他の神様の事例もあるのでどちらか分からない。塩土老翁神も名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。建御雷神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定するため塩竈にやってきた。平定後、塩土老翁だけが宮城の地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えた。塩土老翁神は祀る人々に必要な情報を提供し、とるべき行動を示すという大変ありがたい神様である。一方、塩土老翁神は製塩の神としても信仰されている。矢板周辺には、字名として塩田、玉塩(現、玉田)、高塩、また塩谷など内陸地でありながら塩に関係する地名が多いが、これら地域では古来より塩水が湧出しそれを製塩していたのであろう。いい塩を造るために製塩の神様、塩土翁命を祭ったと考えられる。

また、明治40年(1907年)12月には、塩竃神社には大字の矢板地区にあった5つの神社や宮が合祀され、矢板を代表する神社のひとつとなった。どの祭神も有名。

 

・神明宮(天照皇大神、アマテラススラメノオオカミ

・八坂神社(須佐之男命、スサノオノミコト

・琴平神社(大物主命、オオモノヌシノミコト

・加茂神社賀茂別雷大神、カモノワケイカヅチノオオカミ。賀茂氏の祖神

 

・箒根神社(高原山を御神体とする神社か)

 

最後の石上神社は、矢板駅と蒲須坂駅の間にある。忠愛という造り酒屋がある近く。

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 旧4号線から車で近づくと古墳があるような気がしたが、先述のように本当に石上神社の裏山に古墳があった! 石上神社は天理市布留町に伊勢神宮と並ぶ格式ある石上神宮があるので、そこから勧請されたのであろう。従って祭神は、布都御魂大神(フツノミタマノオオカミ)、布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ)、布都斯魂大神(フツシミタマノオオカミ)の3柱であり、以下の話から天孫族

 

布都御魂大神:大正2年まで本殿はなく(大神(オオミワ)神社には今も本殿がないが)、拝殿奥の瑞垣内の禁足地に神剣・韴の霊(フツノツルギ)が地中に祀られていた。この神剣・韴の霊に宿られているのが布都御魂大神。先述した建御雷神が葦原中ツ国を平定した時に帯びていた十握剣(トツカノツルギ)。またこの十握剣は出雲神話の後の東征神話脚注4後半にも初代神武天皇即位に貢献する話として出てくる。

布留御魂大神:この神様も東征神話が始まる前のもうひとつの天孫降臨話に出てくる饒速日命(ニギハヤヒノミコト、邇邇芸命の兄)という神様が天照おばあちゃんから渡された十種の新宝に宿る神様。この新宝の正式名は天璽十種瑞宝(アマツシルシ__トクサ__ミズノタカラ)。十種神宝脚注5は死者も甦らせる霊験がある。

布都斯魂大神:須佐之男命が出雲に高天の原から追放されて出雲に降臨した直後に、例の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に使った十握剣に宿る神様。

 

3柱を総合して見ると古代の軍事に関する剣とか死者を蘇らせるとか物騒な神様であるが、5世紀の武門の棟梁たる物部氏の総氏神であり、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神であり、大変有り難い神様達である。ちなみに、7世紀後半に物部氏から改めた石上氏になっている。

脚注4:初代天皇になられる神日本磐余彦尊(カムヤマト_イワレヒコ_ノ_ミコト)が九州・日向の地から河内、

    ヤマトに東征して、数々の敵を倒してヤマトの今の橿原にたどり着き神武天皇になるまでの話。

脚注5:天璽十種瑞宝:オキツ鏡、ヘツ鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品品物比礼の十種。

    十種神宝には、死者も甦らせるほどの霊験があるとされる。

一方、この4つの神社以外にも矢板近辺の箒川周辺や大田原、喜連川周辺に多く温泉(ユゼン)神社が点在している。この温泉神社の祭神は、古代に温泉を発見したと言われる大己貴神(オオムナチノカミ)と少名毘古那神(スクナビコナノカミ)である。どこの温泉神社でもこの2柱である。大己貴神は出雲大社に祀られている大国主命の別名である。また少名毘古那神は大国主命が葦原中ツ国でクニ造りをするのに協力した神様なのでこの2柱は出雲族。矢板周辺は那須の活火山の影響で古代から温泉が沸き出し、その温泉の効用は言い伝えで古代の人々に伝わり皆が浸かったのではないだろうか。

矢板の神社を調べてもやはり天孫族と出雲族の人々が居たことになる。どの神社のご利益も実にパワフルである。出雲族の人々が最初に矢板周辺に稲作を始め、その疲れや怪我を癒しに温泉に浸かり、また元気になって稲作をして生活を営んだ。また塩を含んだ源泉が湧き出していたので稲作以外にも古代の人々にとって素晴らしい土地だったことになる。恐らく最初は縄文人という人々が高原山から採取できた黒曜石を活用した武器で狩猟生活を営み、そこに大国主命を祀る出雲系の人々が那珂川経由で訪れ、稲作と方墳による先祖やリーダーを祭る文化を持ち込んだ。その後に天孫族の人々が出雲族の土地に入って来た。流石に、神様は人々にとって大切な神であることから、たとえ後から来た天孫族が仮に出雲族の人々を制覇しても神は大切に守られたのだろう。


さいごに -まほろばの土地、矢板-

恐らく、矢板周辺でその”時”を整理してみると、三世紀の弥生時代後半(古墳時代に入る頃)までに古代の人々は既に矢板周辺で生活が出来ていたし、近くの温泉で心身共に快適な生活をしていた。矢板周辺の古墳が西暦275年頃から始まるとすればその数十年前の250年前後には最低ムラの形態をとり、リーダーが集落を纏めていたのだろう。小さなムラが集まりクニが大きくなると隣のクニとの争いことも多くなったでだろう。多分これが赤城山と男体山の戦いの神話に繋がる。いずれにせよ、稲作環境と温泉や塩が採れる環境に恵まれた矢板の土地は古代の人々が求めた”まほろば”だったはず。天孫族と出雲族のルーツの紹介が始まるとキリがないのでこの辺で筆を置く。今は5月初旬、矢板地区の種蒔きが始まっている。9月下旬にはまた美味しい米が収穫され美味しいお酒造りが始まる。矢板という”神社”の新嘗祭(ニイナメサイ)となる10月の花火大会が楽しみ。

 

5月吉日