八海山の里「藤原」を訪ねておもうこと-第1章 「藤原」の地名について-



 第1章 「藤原」の地名について

第1-1節 200年前の古地図

第1-2節 藤原神社にある「雷電様の水」と法音寺の由緒

第1-3節 「藤原」周辺の神社仏閣の由緒から

第1-4節 「藤原」周辺に来訪した「藤原家」の人々

第1-5節  全国の「藤原」の由来について

第2章 「藤原」の地の利:「藤原」周辺の地形からの考察

第2-1節 魚の川の歴史

第2-2節 南魚沼市の遺跡と古墳群

第2-3節 稲作からみた魚の川流域の土地柄

第2-4節 「藤原」の地の利

第3章 平城京から越後国「藤原」までの行程:越後国の地形からの考察

第3-1節 古志の国から越後国へ:豪族支配から律令国家へ

第3-2節 越後国の土地柄①:今でも新潟という理由

第3-3節 越後国の土地柄②:古墳群、柵が置かれた場所

第3-4節 奈良時代の平城京から越後国への行程

第3-5節 平城京から魚の川流域への行程

第4章 まとめ

 


 第1-1節 200年前の古地図

由来を探す前に、「藤原」という地名はいつ頃からあったのかを、国立公文書デジタルアーカイブの古地図で確認してみた。

  • アーカイブに今から約200年前の江戸時代天保9年(1838年)に描かれた天保国絵図越後国高田長岡というものがあった。現在の高田や長岡近辺の地図になる。
  • このままだと文字が小さく良く分からない。アーカイブにに掲載されている地図の方位は北から南であるが、これを逆転して上部を南、下部を日本海側の北側にして、地図に書かれた川や城を追記してみた。また、凡例も拡大して各郡の範囲も分かるようにした。

約200年前のこの地図を見てゆくと、

  • 信濃川が上から下へ(南から北へ)流れ、
  • 長岡城のある長岡に至る前に、魚の川(地図には魚野川ではなく、魚の川と記述されている)に合流し、
  • さらに、その魚の川には幾つかの支流が流れ込み、さくり川も書かれている。

さらに、この図面をさくり川を目印に地図を拡大したものが次の地図になる。

 

  • 確かに、200年前には既に法音寺村藤原村が描かれている!!!
  • また、その周辺には上原村、下原村、泉村など、実家に帰る途中で出会う村名も出ている。

また、拡大はしていないが、六日町、五日町、二日町、塩沢などの村名が記載されていることも確認できた。

  • なお、左の拡大図で魚の川に沿って描かれている赤線は、三国峠に至ることから三国街道である。三国峠は関東と越後を結ぶ交通路としてきわめて古くから利用されており、戦国時代に上杉謙信の関東遠征の際に利用され、江戸時代には参勤交代に利用されるようになってから重要視されるようになったと言われている。

以上、「天保国絵図越後国高田長岡」から、

  • 200年前の江戸時代後半には既に現在の南魚沼市を構成する村名があったことが分かった。

一方、三国峠は関東と越後を結ぶ交通路としてきわめて古くから利用されており、戦国時代に上杉謙信の関東遠征に利用され、江戸時代の初期の寛永 12 年(1635)3 代将軍 徳川家光の下で はじめて制度化された参勤交代に利用されるようになってから三国街道として宿場町も整備されることになる。現在の南魚沼市にあった宿場町は、関宿、塩沢宿、六日町宿、五日町宿、浦佐宿の5つあり、交通の要所として栄えることになったはず(逆に、要所となるところが宿場町になる)。

 

ということから、かなり荒っぽいが、

  • 200年前の「天保国絵図越後国高田長岡」古地図に描かれたさくり川周辺地域の村々や六日町村は、江戸初期の400年前とほぼ同等で存在していたのではないか。つまり、「藤原」の地名は、400年前には存在していたのではないか。

一方、魚野川(古地図では魚の川)を利用した運送についても調べてみると、

  • 約500年前の室町時代の1495年(明応4年)には、上杉家が魚野川の舟運の許可を出すなど、かなり古い時代から舟運が行われてきた。
  • これが江戸時代に入り、陸運としての三国街道と相まって、信濃川や魚野川を利用し旅行者や魚沼の年貢米、さらには特産品の輸送に舟運が用いられた。
  • これによると、当時の信濃川河口(現在の新潟市)から信濃川を遡上して長岡、小千谷を経由し六日町村に至る航路は、下りは塩沢の上十日町村から六日町舟が運び出し、新潟からの上り(遡り)はすべて六日町に下したようだ。
  • 南魚沼郡誌によれば、1637年(寛永14年)の記録に六日町に48艘浦佐(現在の南魚沼市北部)に50艘小出島(現在の魚沼市中心部)に24艘の胴高船があったという。
  • この頃の遡上上流点は、六日町宿(現在の南魚沼市中心部)であり、いったん下流に下った船は、川岸に沿って一週間以上かけて上流まで引き上げていた
以上、200年前の古地図から「藤原」の地名を確認した。また、三国街道や魚の川を使った舟運の歴史を考慮すると、六日町村は400年から500年前には魚の川流域の中でも栄えた商業村であったようだ。栄えた商業村という点から古地図にあったような各村は、400年~500年前には既に存在していた可能性があるだろう。

 第1-2節 藤原神社にある「雷電様の水」と法音寺の由緒

先ずは藤原家との関係が書かれている「雷神様の水」の立て看板を読んでみよう。この看板は「藤原」神社の境内にあり、八海山の湧水が「雷電様の水」と呼ばれコンコンと湧き出ているところの脇にある。

  • 看板には、「天平7年(735年)藤原麻呂(藤原不比等の四男)が聖武天皇の勅命によって創建した法音寺」と書かれている。繁城山・法音寺は「藤原」と隣接する南魚沼市「法音寺」地区にあるが、お寺の住所だけは「藤原」である!また、法音寺は今回の義母の葬儀全般にお世話になったお寺である。

 藤原4兄弟の末になる藤原麻呂が建立したとされる「繁城山・法音寺」創建の由来を最近公開したGoogleBard(チャットAI)で調べてみた。以下、青文字はチャットの文言を引用したもの、赤文字はそれに自分が追記した文言である。

 

繁城山・法音寺は、新潟県南魚沼市藤原にある(現在は)真言宗智山派の寺院です。天平7年(735年)、藤原麻呂(藤原不比等の四男、藤原四兄弟のうちの末弟)が聖武天皇の勅命によって開いたのが始まりと伝えられています

 

法音寺は、鎌倉時代に鎌倉幕府初代将軍源頼朝の庇護を受け、永久祈願所となり寺領1千貫を安堵されました。その後、越後守護代長尾家の一族が坂戸城に入り上田長尾氏を称し法音寺は祈願所として庇護されました。

 

戦国時代後期になると、上杉謙信と当時の当主長尾政景が対立しますが、後に降伏し謙信の実姉を妻にし景勝をもうけます。法音寺は謙信が真言密教に深く帰依していたことで庇護を受け、堂宇の造営や寺領の寄進が行われました。また、春日山城にも法音寺が創建され、天正6年(1578年)に謙信が死去した際には、同じ真言宗の大乗寺と共に葬儀を取り仕切っています。

 

春日山の法音寺は、その後を継いだ上杉景勝の移封に伴い、会津の鶴ヶ城(福島県会津若松市)の城下、米沢城(山形県米沢市)二の丸と移り、歴代藩主の菩提寺の1つとして現在でも八海山・法音寺を名乗り歴代上杉家墓所を守っています。

法音寺の由緒に興味深い人の名前(藤原麻呂、上杉家)が出てきた。また、会津にある八海山・法音寺との繋がり(以前に名古屋に住む義兄から聞いたことがあった)がわかった。 

 

ちなみに、法音寺を上杉家が庇護したとあるが、そもそも「上杉家」の家系の祖は「藤原家」であった(後ほど藤原家系図を掲載してある)!


 第1-3節 「藤原」周辺の神社仏閣の由緒から

現在の南魚沼市には法音寺以外にも「藤原家」と関係する由緒をもつ神社仏閣があるかも知れない。改めて、魚野川流域の神社仏閣の由緒を調べてみよう。

 

幾つかの観光案内などを整理すると、下表のように五つの寺院と二つの神社がクローズアップされた。 

(青文字は各HPから引用、赤文字は追記した文言)

 

神社仏閣名

(町・村名)

創建に関わる伝承 参考

 

八海山尊神社

(大崎)

八海山のそもそものいわれは、中臣鎌足公が御神託を頂いて御室(おむろ・現六合目)に祠をもうけたのが始まりと伝えられております。八海山には役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)、続いて弘法大師(空海)が頂上で密法修行されたという事蹟譚があり、古くから両部の霊場として、山麓周辺の修験宗寺院を中心に八海山信仰が展開されてきました。 役行者小角

 普行寺・毘沙門堂

(浦佐)

 大同2年(807)、坂上田村麻呂が東夷東征の折、当地を訪れ毘沙門天王像を勧請し国家鎮護の祈願をしたのが始まりと伝えられています。 坂上田村麻呂

雲洞庵(雲洞)

今から1300年ほど前の奈良時代、藤原房前公(藤原鎌足の孫)の母君(娼子、蘇我系)が出家して当地に庵を結び、金城山から湧き出る霊泉で沢山の病人を救いました。母君亡き後、養老元年(717年)に薬師如来を携えてこの地を訪れた房前公は、母親の菩提を弔う金城山雲洞庵を建立されました。以来、藤原家の尼僧院として律宗に属し、約600年間にわたり特に女人救済の庵寺として大変栄えたのです。その後、今から600年ほど前の室町時代、関東管領・上杉憲実(のりざね)公が藤原家末裔の因縁で庵をうけ、曹洞宗雲洞護国禅庵を開創し、以降、北陸無双の大禅道場として栄えてきました。

藤原娼子

藤原房前

上杉憲実

君帰観音(君帰) 和銅年間(西暦710年頃)に僧・泰澄が大日堂を建立し、阿弥陀如来の像を安置したのがはじまり。

泰澄大師

白山信仰

大福寺(長崎) 大福寺大福寺の創建は推古天皇22年(614)、蘇我馬子によって開かれたのが始まりと伝えられています。  
天昌寺(思川) 養老6年(722)天下に悪病流行す。藤原房丸公(鎌足の曾孫)観音菩薩を祈念し、一子を得た前の因縁により、尊像を掘りしてかごを受けんとて、越の聖者泰澄大師に懇願した。

 藤原房丸?

(鎌足の曾孫)

八幡宮(八幡) 崇神天皇の御代(紀元前97年から紀元前30年)、鳥坂山(現・坂戸山?)の山頂に大国主命の分霊を勧請したのが始まりとされ、奈良時代の天平6年(734)に現在地に遷座し、社号を坂本神社に改称、地名も坂本に改められ平安時代の歴史書である三代実録には貞観3年(861)に従四位下に列した事が記載されています。  

の最初にある八海山尊神社(はっかいさんそん、南魚沼市大崎)のHPで書かれている由緒は、

  • 八海山のそもそものいわれは、中臣鎌足公が御神託を頂いて御室(おむろ・現六合目)に祠をもうけたのが始まりと伝えられております。

といきなり中臣鎌足(後の藤原鎌足)が出てきたことに驚いた!!!

 

今まで毎年開催される大火渡祭から、古くから修験者の山として信仰されてきた霊峰・八海山の麓にある神社という理解であったが、そのいわれに「藤原家」との関りがあったとは。。。

 

八海山尊神社の御祭神は、以下の五柱。

  • 国狭槌尊(くにのさづちのみこと):天之常立神までの別天神(別天つ神五柱)は天上の事柄にのみまつわる神であるのに対して国之常立神(くにのとこのたちかみ)以下の神世七代は、国生みを行う岐美二神と含めて国土に関わってくる神である。国狭槌尊は国之常立神の後に生まれてくる国土に関わる神様
  • 天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと):天孫降臨の主役で天照大御神の孫
  • 木花咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと):瓊々杵尊の奥さん
  • 大山祇尊(おおやまづみのみこと):木花咲耶姫尊のお父さん。伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれた山の神様。
  • 日本武尊(やまとたけるのみこと):第12代景行天皇の次男。

 

一方、「藤原家」の氏神様としては、称徳天皇(藤原不比等の外孫)の勅命により左大臣・藤原永手によって768年に創建された春日大社が有名である。

 

その御祭神は、以下の四柱。

  • 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)- 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)。神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就させた。
  • 経津主命 (ふつぬしのみこと)- 同上(下総国香取の神)
  • 天児屋根命 - 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
    • 後で「藤原家」家系図を掲載するが、もともとは「藤原家」の祖になる「中臣家」は古代の日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族であり、その祖神は天児屋命(アメノコヤネ)である。この神様は『古事記』には天照大御神が岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した神様である。また、天照大御神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)が九州に降臨する際に随伴し、中臣連の祖となったとある。
  • 比売神 - 天児屋根命の妻(同上)。ただし、その正体は天照大御神であるとの説がある。

 以上のように、八海山尊神社と春日大社の御祭神には大きな違いがあり、「藤原家」の祖神(天児屋根命)が八海山尊神社に祭られていない。このため、八海山尊神社の由緒にある「中臣鎌足公が御神託を頂いて御室(おむろ・現六合目)に祠をもうけたのが始まり」の解釈として、鎌足公として力を発揮する645年大化の改新から亡くなる669年の間のご神託により八海山神社が創建されたと解釈するのは早計だろう。

 

あくまでも、八海山尊神社のHPにあるように、「飛鳥時代、奈良時代、平安時代初期の人物として、役行者・小角(えんのぎょうじゃおづぬ、生存期間634年~701年伝)、続いて弘法大師(空海、生存期間774年~835年が頂上で密法修行されたという事蹟譚があり、古くから両部の霊場として、山麓周辺の修験宗寺院を中心に八海山信仰が展開された」という点を考慮し、

  • この二人が直接八海山に来訪していなくても(実際には来ていないはず)、
  • 飛鳥時代後半からは八海山周辺には山岳信仰があり、修験道の修行僧が来訪していたのだろう。

山岳信仰は、奈良時代に世俗化した仏教に反発する仏教の一派・密教と結びつく。密教といえば、唐で修行を積んだ空海(弘法大師)や最澄(伝教大師)が8〜9世紀に広めたもので、生活の様々な局面での現世利益や病魔の退散などを目的とする。その密教が山岳信仰と結びつくことで、修験道がより組織化され、全国に山伏が現れ、信仰は急速に拡大した。確かに、日本は山林の面積の割合が大きいので、山を舞台にした信仰が広まったのも頷ける。

八海山尊神社の由緒の最初に「中臣鎌足」が出てくるので、「藤原家」(中臣家)の守護神や祖神と八海山尊神社の御祭神とのつながりを調べたが繋がりはないようだ

 

そもそも「中臣家」はあくまでも宮廷の祭祀を担当した古代の氏族であり、「神と人との中を執り持つ」氏族である。つまり、奈良時代から学問とした仏教に対して現世利益や病魔の退散などを目的とする仏教信仰が発展してゆくので、八海山はその霊場として相応しいという神託が時の権力者・中臣鎌足に降りたという後つけの由緒とも考えられる

 

ただ、価値ある霊場としての後つけの由緒であれば、役行者小角でも弘法大師でもよいはず。

何故中臣鎌足なのかは不明である。。。。この点は後ほど再度とりあげることにして、先に進む。


にある浦佐毘沙門堂・普光寺は、「大同二年(807年)に平城帝の御代、坂上田村麻呂将軍が東国平定の際に建立とあるので、法音寺建立より72年後になる。

    • 坂上田村麻呂は、「四代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍(797年40歳・従四位下、804年47歳・従三位)を勤めて征夷に功績を残した。薬子の変(810年、53歳・正三位)では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神、軍神として信仰の対象となる」という有名な人物である。

つまり、法音寺建立から72年後であり「藤原家」ではないものの、平安時代初期807年に「浦佐」の地に当時の中納言(従三位)なる高貴な人が来ていることになる。


音寺の建立時期(735年)と同じ奈良時代前半に建立されたのが、下記の3つの寺院

 

雲洞庵(雲洞)、君帰観音(君帰、きみがえり)、天昌寺(思川)

  • 他の大福寺八幡宮は、下記の理由により調査対象から外す。
  • 大福寺(越後八十八カ所霊場のひとつ)は蘇我馬子まで遡るので由緒自体が少々あやしいこと
  • 南魚沼市八幡に鎮座する八幡宮は神様なので紀元前からの謂れがあるのはいいとして、734年に現在の南魚沼市坂戸山から八幡の地に遷座したとある。734年は上述したように法音寺創建の735年と一年違いなので、藤原家との関係性を考えたが、そもそも藤原家の祖様は天児屋根命(アメノコヤメノミコト)であり、八幡宮のご祭神である八幡大神(応神天皇)その母・息長帯姫命(神功皇后)三女神(多岐津姫命、市杵島姫命、多紀理姫命、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が天照大御神に身の潔白を証明するために行った誓約で生まれた)とは異なること

順に3つの寺院の由来をみてゆこう。

 

雲洞庵(雲洞)養老元年(717年)、藤原房前、律宗の尼僧院として建立

雲洞庵縁起のHP青字で引用させてもらうと(赤字は追記)、

  • 今から1300年ほど前の奈良時代、藤原房前公(藤原不比等の子、藤原4兄弟の次男。北家の祖)の母君(娼子、蘇我系、藤原不比等の正室)が出家して当地に庵を結び、金城山から湧き出る霊泉で沢山の病人を救いました
  • 母君亡き後、薬師如来を携えてこの地を訪れた房前公は、717年母親の菩提を弔う金城山雲洞庵を建立されました。以来、藤原家の尼僧院として律宗に属し、約600年間にわたり特に女人救済の庵寺として大変栄えたのです。
  • その後、今から600年ほど前の室町時代、関東管領・上杉憲実(のりざね、1410?~1466年?)公が藤原家末裔の因縁で庵をうけ、曹洞宗雲洞護国禅庵を開創し、以降、北陸無双の大禅道場として栄えてきました。
  • 金城山雲洞庵の由緒には、藤原娼子、その子・藤原房前が出てくる。その建立は西暦717年であるから法音寺建立時期735年より18年さかのぼることになる。
  • ここで、法音寺と雲洞庵の縁起に登場する人物を整理してみると、
    • 法音寺:藤原麻呂、上杉謙信、上杉景勝
    • 雲洞庵:藤原娼子、藤原房前、上杉憲実
  • 勉強不足であったが、上杉家は藤原房前を北家の祖とするとその末裔になる。
    • この系図を下図(黄色部分)に示しておく。ちなみに、奥州藤原家も同じく藤原房前の末裔であった。

参考(児玉幸多編:「日本史年表・地図」p.56,2012年4月1日第18版、吉川弘文館)をベースにして、法音寺、雲洞庵、八海山・法音寺建立への関係者をマーキング。

天昌寺(思川)養老6年(722)天下に悪病流行す。藤原房丸公(鎌足の曾孫)観音菩薩を祈念し、一子を得た前の因縁により、尊像を彫して加護を受けんとて、越の聖者・泰澄(たいちょう)大師に懇願した。

この天昌寺であるが、HPの解説には三つ不明点がある。
  • ひとつは、2010年3月発行の東アジア文化交渉研究にある論文;”奈良時代前後における疫病流行の研究-「続日本紀」に見る疫病関連記事を中心に-”、pp.501~504によると、722年前後に天下を揺るがす疫病などの記録がないこと(藤原四兄弟を死亡させた732~741年に大流行した疫病のことは記載あり)。
  • 二つ目は、どのように探しても、藤原鎌足の曾孫にあたる藤原房丸公という人物が藤原家系図には存在しないこと。
  • 三つめは、HPの文言を素直に読むと、722年に建立したとは書いていない。HP後半には、「長和元年(1012)密教行者恵心僧都(平安時代中期の天台宗の僧、当時71歳)、諸州の霊仏巡拝の時、当地魚野川西に紫雲天頂を覆える飯盛の山あり。怪みて窺うに大樹の下に朽たる大古仏一躯在り。礼せば泰澄大師作の正観音の像なり。依って自ら脇侍多聞・持国二天及び薬師像を彫し侍神とした」とある。
このような不明点のうち、特に「722年の点かを揺るがす疫病天然痘が猛威をふるった735年~737年読み替えてみると以下のような推察ができる。
  • 737年にこの天然痘でなくなった藤原四兄弟のうち誰かの子供(=藤原鎌足の曾孫にあたる)とする。
  • この人物が四兄弟の死亡を哀れみ、越の聖者・泰澄(たいちょう)大師に加護を受けんとして尊像を彫ることを懇願した(泰澄55歳のとき、全国で天然痘が大流行し、平城京でも多数の死者が続出していました。その時、聖武天皇より泰澄に勅命が下され、十一面法を修したところ、なんと疫病は数日間で治まったのです。その功績により大和尚の位を授けられ、『泰澄』の名を賜ったのでした)。
  • その時期は不明だが、泰澄が86歳で入定したのが767年なので、737年~767年の30年間のどこかではないか
  • そして懇願した尊像を天昌寺に寄進した。。。
天昌寺建立の由来にある「722年天下を揺るがす疫病」を「735~737年に猛威をふるった天然痘」に置き換えると藤原四兄弟のうち誰かの子供(=藤原鎌足の曾孫にあたる)が、天然痘で亡くなった親の法要のために天然痘を納めたと言われた泰澄大師に尊像作成を依頼し、その後天昌寺に寄進した。。。となる。また、当時既に泰澄法師と呼ばれた有名人にこのような懇願できる人物としては高貴な「藤原家」以外にはいないのではないか。
  • 天昌寺は現在の南魚沼市思川にあり、また藤原家と建立の由来をもつ雲洞庵や法音寺から魚野川を挟んで近接していることから、その子の親は藤原房前、もしくは藤原麻呂であってもおかしくはないだろう。つまり、雲洞庵と法音寺創建の由緒がが717年と735年であるから、その後もどちらかの子孫が思川、雲洞、法音寺近辺に住んでいたと言えないだろうか?

君帰観音(君帰、きみがえり):和銅年間(西暦710年頃)に僧・泰澄、大日堂を建立

 

この由来の信憑性は、泰澄の生涯について書かれたHPを参考にして考えてみる。

  • 天武天皇11年(682)0歳
    • 越前国麻生津にて父・三神安角、母・伊野氏の次男として生まれる。「越の大徳」と名づけられる。
  • 持統天皇7年(693)12歳
    • 高僧道昭が北陸巡回中に、泰澄をひと目見て神童と告げる。(持統天皇6年ならば11歳)
  • 持統天皇9年(695)14歳
    • 高僧の夢を見て十一面観音を知り、越知山で修行を始める。(大谷寺では11歳)
  • 大宝2年(702)21歳
    • 鎮護国家の法師となる
  • 霊亀2年(716)35歳
    • 夢に出てきた白山神に白山登頂を促される。
  • 養老元年(717)36歳
    • 白山で登頂を果たし、千日修行を積む。
  • 天平9年(737)56歳
    • 十一面観音法により天然痘の流行を鎮め大和尚の位を授かり「泰澄」と改め名乗る。
  • 天平宝字2年(758)77歳
    • 白山を下山し、越知山に帰山。大谷寺に篭もる。
  • 神護景雲元年(767)86歳
    • 3月18日大日如来の定印を結び入定した。

 この年表をみるかぎり、泰澄は越前の人である。君帰観音の建立が710年頃であると、21歳で鎮護国家の法師になってから八年後の29歳。35歳で白山神に登頂を促されるまでは越前で修行を積まれていると考えられる。修行中に越前からわざわざ越後の魚野川流域の君帰の土地まで来て大日堂を建立するという由来は少々怪しいようだ。藤原家との繋がりはないので、今回の調査からは一旦外す。

 

ただし、君帰の隣村にある天昌寺の由来でも泰澄大師が出てくることから、和銅年間(西暦710年頃)に僧・泰澄、大日堂を建立」という時期は無視すると、法音寺、雲洞庵付近にいた「藤原家」に関係する高貴な人がやはり泰澄大師関係者に大日如来像作成の懇願をし、大日堂を建立して寄進したともいえるかも知れない。

 

以上のように、法音寺、雲洞庵、天昌寺建立の由来などを見てきた。その結果、

  • 奈良時代前半ごろに藤原家の人々もしくはその関係者が、法音寺や雲洞庵周辺に来ていたと考えても矛盾はないだろう。

とすれば、上述した八海山尊神社の由緒に「中臣鎌足」が出てくることが謎であったが、

  • 八海山を尊い霊場とするために、「藤原」の地に来訪し移住?した人々もしくはその末裔の人々がその由緒として「中臣鎌足」のご神託を伝えたのかも知れない。

 第1-4節 「藤原」周辺に来訪した「藤原家」の人

ここまでにクローズアップされた「藤原家」の人々とその来訪時期を整理してみた。

  • 雲洞庵(南魚沼市雲洞)
    • 藤原房前のお母さん(藤原娼子):時期不明
    • 藤原房前:717年
  • 法音寺(南魚沼市藤原)
    • 藤原麻呂:735年

「藤原家」は「中臣鎌足」から始まるので、雲洞庵や法音寺に出てくる「藤原家」の人々の系図を少し整理しておこう。

 

墳時代・飛鳥時代・奈良時代の天皇や豪族(蘇我家、藤原家)の家系図としてたまたまこの時代の歴史小説を読むために整理したものがあるので、ここから上記の三人の系図をみてみよう。

 

下図の左下に「藤原系」として藤原鎌足(中臣鎌足)、藤原不比等が出ている。近親結婚が多いだけに非常に複雑である。

余談だが、蘇我稲目に始まる天皇の外祖父戦略と同様に、藤原鎌足・不比等の外祖父戦略はすさまじいものである。

先ず、系図の青線で示したように藤原娼子は、藤原鎌足の次男・不比等の正室と言われ、藤原四兄弟の武智麻呂(ぶちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)の三人の母である。娼子はその家系から蘇我馬子の曾孫にあたる。

 

不思議なもので本来なら蘇我家の血統は、中臣鎌足と中大兄皇子とが蘇我入鹿を斃して途絶えたはずが、蘇我氏の血脈が藤原不比等を通じて、後世残って行く。特に、藤原不比等が持統天皇に引き立てられる理由の一つには、持統天皇自身が蘇我氏の出身であることに起因するとも考えられている。持統天皇は天智天皇の娘であるが、その母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)であり、蘇我馬子の曾孫にあたる人である。

 

一方、藤原四兄弟の末弟である藤原麻呂は、不比等と異母腹の妹であり、もと天武天皇の妃である五百重娘を母とする。

ここで、雲洞庵の由緒に、

  • 藤原房前公の母君(娼子)が出家して当地に庵を結び、金城山から湧き出る霊泉で沢山の病人を救いました
  • 母君亡き後、薬師如来を携えてこの地を訪れた房前公は、717年母親の菩提を弔う金城山雲洞庵を建立

とあることから、藤原娼子がいつ藤原不比等と婚姻し、また藤原武智麻呂・房前・宇合の出産後に出家し金城山の麓を訪れるたかを整理してみよう。また、藤原四兄弟の房前が娼子の菩提を弔うために717年雲洞庵を建立してから、18年後に四兄弟の末弟・藤原麻呂が法音寺を建立しているので、麻呂も併せて不比等、娼子、四兄弟の生誕を年表にしてみよう。


 第1-5節  全国の「藤原」の由来について

 地名辞典オンライン「藤原」を含む地名を検索すると、55か所あった。

これらすべてをグーグルマップで調べて以下の表にまとめた。

この表からそれぞれの由来を纏めると下記となる。

  • 奥州藤原の「藤原家」に由来するもの

新潟県南魚沼市の隣接する群馬県利根郡みなかみ町にも地名に「藤原」がつくところがある。ここには、利根川の源流がある大水上山やその隣には藤原山がある。その下流には藤原湖もある。しかし、この「藤原」は魚沼川流域に見られるような扇状地ではなく山深い土地である。奥州藤原氏の落人が移住して来て地名に「藤原」をつけたという伝承もあるようだ。その信憑性の有無は別として、この地域は五畿七道のうち都から東方面に向かう東山道や北陸道からたやすく行ける所ではないだけに、奈良時代初期に南魚沼市の法音寺や雲洞庵のように、「藤原家」の関係者が移住して付けた地名という可能性はかなり低いと考えられる。

以上の55か所から、「藤原家」との関係を言い伝えている所だけを抽出すると、以下の5か所となる。

 

12:栃木県日光市藤原

藤原仲麻呂(恵美押勝)の四男・藤原朝狩が759年頃に陸奥国按察使兼鎮守府将軍に任命され、この会津西街道にある町に立ち寄り、一部の兵士が住みついたという言い伝え。

 

13:新潟県南魚沼市藤原

天平7年(西暦735年)聖武天皇の勅命により藤原不比等の四男・藤原麻呂が建立したという言い伝え。

 

18~38:三重県いなべ市藤原町(この21か所は一カ所に集まっていることから一カ所とする。

869年(貞観11年)「続日本後紀」を編纂した春澄善縄の出身地がいなべ市であり、朝廷の中枢を担う公卿の列に加えられたこともあり、「藤原家」とは無縁とも言えない。

 

39~40:三重県多気郡明和町北藤原、南藤原

伊勢街道沿いにあり、古代には天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した斎王の住んだ斎宮(斎宮寮)があった。「藤原家」からも元正天皇時代に「藤原家」の外孫・聖武天皇の第一皇女・井上内親王を斎王に出していることから「藤原家」とは無縁とも言えない。

 

53:大分県速見郡日出町藤原

宇佐八幡宮創立の立役者と伝えられる「大神比義(おおがひぎ)」ゆかりの伝承地であり、奈良時代の「藤原家」からの寄進などかの関係がうかがえそうなところ。

 

これら5カ所のうち、特に、12:栃木県日光市藤原13:新潟県南魚沼市藤原を除く3カ所は「藤原家」関係者名は直接出てこないが関係がうかがえるとした私感である。この3カ所は恐らく「藤原家」に関係した人物が移住した先の地名に「藤原」をつけたものと考えておき、今回の調査からは外すことにした。

 

ということで、後は、12:栃木県日光市藤原13:新潟県南魚沼市藤原の2カ所の地名由来の信憑性を考察していこう。

先ず、この2カ所は共に言い伝えに実在した「藤原家」の人物名があることである。

 

12:栃木県日光市藤原⇒藤原不比等の孫・藤原仲麻呂(恵美押勝)の四男・藤原朝狩

13:新潟県南魚沼市藤原⇒藤原不比等の四男・藤原麻呂

 

古墳時代・飛鳥時代・奈良時代の天皇や豪族(蘇我家、藤原家)の家系図としてたまたまこの時代の歴史小説を読むために整理したものがあるので、ここから上記の二人の系図をみてみよう。

 

下図の左下に「藤原系」として藤原鎌足(中臣鎌足)、藤原不比等が出ている。近親結婚が多いだけに非常に複雑である。

余談だが、蘇我稲目に始まる天皇の外祖父戦略と同様に、藤原鎌足・不比等の外祖父戦略はすさまじいものである。

俗にいう、藤原不比等がもうけた4人の男子は、藤原四兄弟と呼ばれ、藤原武智麻呂(むちまろ)、藤原房前(ふささき)、藤原宇合(うまかい)、藤原麻呂(まろ)の4人である。

  • 藤原四兄弟・四男・藤原麻呂が南魚沼市藤原に関係する。

藤原四兄弟は、720年亡くなった父親の藤原不比等の遺志を継いで政治に活躍し、政治の実権を握り、藤原氏の全盛期を築くが、737年4人とも天然痘で亡くなり、藤原氏の勢力は衰退した。その後の政権を握ったのが橘諸兄であり、その政権下で昇進してきたのが藤原武智麻呂(むちまろ)の次男・藤原仲麻呂(後の恵美押勝)であり、743年には公卿に列するようになる。そして

  • 藤原仲麻呂・四男が藤原朝狩であり、栃木県日光市藤原に関係する。

また、藤原麻呂と藤原朝狩について調べてみると、当時の蝦夷対策のために奈良の都から陸奥や出羽国に派遣されていることが分かる。

藤原麻呂:天平9年(737年):持節大使として陸奥から出羽国への直通路開削事業を行うために東北地方に派遣

藤原朝狩:天平宝字元年(757年):陸奥守、その後に陸奥国按察使兼鎮守府将軍

 

この点から、「藤原家」の人々やその関係者は、奈良の都から蝦夷対策のため陸奥や出羽国への往来があったと考えられ、日光市藤原の由来や法音寺の由来から南魚沼市に「藤原」があることの信憑性は高いと言える。 

  • 地名に「藤原」を含む全国55個か所のうち地名の由来として「藤原家」の人名を挙げているのは2か所あった。
    • 新潟県南魚沼市藤原(法音寺の伝承):藤原麻呂による法音寺建立の伝承
    • 栃木県日光市藤原:藤原朝狩の関係者が移住したという伝承
  • また、この二人は当時の蝦夷対策のため陸奥・出羽国に責任者として派遣されていることから、その手前にある越後国(元・南魚沼市)や下野国(日光市)に部下や関係者と立ち寄り移住する可能性も高い。

ここまでにクローズアップされた「藤原家」の人々とその来訪時期を整理すると、

  • 藤原房前のお母さん(藤原娼子):房前より前に雲洞に来ているが、来訪時期不明。
  • 藤原房前:717年
  • 藤原麻呂:735年、創建から2年後の737年に、麻呂は東北地方の持節大使として2月に多賀城に着任し、5月~6月頃に帰京、7月に天然痘で死去とされている。一方、帰京する際に体調を壊し、法音寺周辺で亡くなったともいわれているようだが、長屋王の怨念で四兄弟が一斉に死亡したと過去から言われていること、また多賀城から帰京する際にわざわざ南魚沼市経由ではあまりにも遠路するぎることなどから、筆者は藤原麻呂が法音寺建立に関係することに信憑性があるが、この地での死亡説は少々あやしいと思う。