(2)栃木県矢板市から東北方面の話

矢板を含む北方の歴史さかのぼり  -登で食べる馬刺しが美味しいワケ-

 

§1.はじめに

 2000年8月1日付けで矢板に来て以来、単身赴任は16年目に突入。

“郷に入っては郷に従え“という訳で、昨年5月のレポートでは歴史的観点から矢板周辺の土地柄を纏めた。今年の新しい発見は、会社の近くの登(ノボル)という居酒屋だった。この居酒屋といっても余りにもローカルなので、マップを付けておく。

 

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 ここのタケノコ(1)。という串焼きと塩ちゃんこは絶品。更に、余りこれまで食べなかった馬刺しの旨さには感動した。馬刺しは熊本ではサシと言われる脂があるものが食べられるが、矢板版はサシが無い。会津柳津と郡山で食べた時も同じくサシ無しだった。そう言えば、東北地方は歴史上、駿馬の生産地と言われるぐらい馬との付き合いが長いはずである。駿馬を食べるということではなく、馬との生活が遠い昔からあったという意味である。坂東と言われた今の関東地方では10世紀中頃に平将門が東国独立を夢見た時も馬に乗って大暴れしたし、その前後にあった坂東8カ国や東北地方を巻き込んだ騒乱の時も兵士たちは馬と弓を持って大暴れ。そして鎌倉時代へと繋がって行くように馬と東日本は縁が深いのだろう。ちなみに、私も午年生まれである。

(1)タケノコ:牛の動脈を小さい短冊状に切り出した串焼き。焼き上がった形状が筍を焼いたように見えるためタケノコと命名したと想像。塩焼きでコリコリとした触感はビールにピッタリ。登でしか食べられないのに5本で350円というのもノンベェには極めてうれしい。塩ちゃんこ鍋の〆は中華そばがベスト。すばらしい塩ラーメンになる。

馬刺しの旨さが縁で、矢板を含む北の地方に興味をもち、北の地方の縄文・弥生・古墳時代から中世までを遡ってみたくなった。あくまでも聞いたことなどを手掛かりにしたもので歴史研究者が書いた良本には及びも付かない。登で馬刺しを食べる時の酒の肴レベルの話としてレポートを書いてみた。また、馬刺しがうまい理由もその中から探してみる。

7世紀後半から始まる律令時代では矢板は下野国にあった。下野国と言えば、坂東八カ国(下野、上野、下総、上総、安房、常陸、武蔵、相模)(2)の一つの国である。古代や中世を語るために、陸奥(今の青森・岩手・宮城・福島県)(3)・出羽(今の山形・秋田県)(4)の地域を“東北”(5)と称し、“坂東”と共に記載する。ちなみに、余計な事だが、坂東太郎とは利根川で取れるウナギのことで、太郎は長男に付けられた名前で一番大きいという意味があるらしい。

 (2)坂東:早い話、今の関東。東京都、千葉県、神奈川県、群馬県、栃木県、茨城県。しかし、西暦1600年頃に徳川家康が江戸に流れ込む利根川が洪水や江戸東側の沼地開拓のために千葉県野田市北辺りで銚子に流れ出るようにした(利根川東遷)。今回のレポートでは東北と坂東地域を書くために、利根川東遷以前の坂東の地形を頭に入れておくことにした。縄文時代の貝塚の場所とか8世紀以降の坂東の荘園、御厨の遺跡がどこまで海が来ていたかを知る上での参考になる。

 元々の地形を推察するのに海面設定出来る非常に便利なサービスがあった。海面を1mづつ増加させてることができるサービス(flood.firetree.net)。現在より+9m高くすると中々どうして東遷までの地形と良く似ている。学術的根拠はないが、似ていることだけを特長として参考にしている。 

(3)陸奥国:出羽国と同じく東山道の一国。大化の改新(645年)以降に一国となる。(2-2)節以降で記載したが蝦夷の反乱が多く、多賀城、胆沢城などの城柵が置かれた。 

(4)出羽国:今の山形と秋田県。五畿七道のうちの東山道の一国。708年越後国に出羽郡がおかれ、712年に出羽国となった。最上川以下11群からなり、蝦夷支配のために城輪柵(キノワノサク)、払田柵(ホッタサク)、秋田城、雄勝城(オガチジョウ)を置いた。 

 (5)7世紀後半の律令時代以降の東北を理解してゆくには:出羽と陸奥という東北全体を東と西に分けるより、北東北と南東北に分けた方が後の鎌倉時代までの蝦夷との戦いの歴史が分かりやすいと思う。特に、平安時代774年の蝦夷との戦いの始まりと言われる桃生城襲撃から前9年の役(1051年)や後3年の役(1083年)、奥州藤原氏と源頼朝の戦い(1189年)などの真因が分かり易い。北東北は“青森県+岩手県北部+秋田県北部“と南東北は”岩手県南部+秋田県南部+宮城県+福島“。どこが北部と南部の境かは、今の北海道南部と北東北の交易の跡を探ることになるので今回は割愛。参考に注釈(6)の岡本氏の本に掲載された”前9年の役(1051年)“が起きる頃の朝廷、元蝦夷、北の民の勢力範囲が分かる。

 


§2. 東北の歴史

 本屋に行くと、東北の歴史に関する書籍が多くなっている感じがする。これは約5年前の2011年3月11日の東日本大震災からの復興を目指すにあたり、古来の東北人の辛抱強さを改めてクローズアップするものが多い。

 その中に東北地方は過去から5戦5敗であるもののその度に見事に復興してゆく強さが書かれている本がある(6)それを参考にすると、東北人の5つの戦いとそこからの復興を見ることによって元々根強い人たちの存在を確かに理解できる。また、これらの根強さの根底を探るにはもっと時代を遡る必要があるが、7000万年前の日本列島の誕生まで行ってしまう(7)と脱線してしまう。今回は縄文時代から弥生時代の古代を見ることから始める。

(6)岡本公樹;“東北 不屈の歴史をひもとく”、講談社(2012/1月):東北地方は中央と5度戦って5度負けたという歴史的評価があるという。その5戦とは本文中でも一部記載しているが列挙しておく。①蝦夷戦争、②前9年後3年の役、③奥州藤原氏の滅亡、④伊達政宗の豊臣秀吉への服従、⑤幕末の戊辰戦争。最初の蝦夷戦争は平安時代を迎えるに辺り国の在り方を大きく変えるきっかけとなった。桓武天皇は蝦夷戦争勝利と平安京遷都の同時宣言を行い都の反対勢力を押さえる計画であった。しかし、その二つの計画遂行には莫大な費用が必要になった。逆にこれがきっかけで天皇へ全ての権力を集中させない摂関性へ移行していった。

 (7)山形県立博物館:太古の昔からの山形県の成り立ちを展示している。これはこれで非常に参考になる縄文のビーナスと呼ばれる土偶も展示されている。


(2-1)古代の東北地方の生活

遠い昔から北東北や北海道は寒冷の地とこれまで認識していた。しかし、北緯41度に水田稲作遺跡(8)があった。青森県南津軽郡田舎舘村にある今から2000年前(西暦0年前後)の垂柳遺跡(9)である。水田を耕した大人と子供の足跡までが残る貴重な遺跡である。水田稲作(10)は中国長江下流域で約7000年前(西暦BC5000)から朝鮮半島をBC10~9世紀経由してBC9~8世紀には九州、BC7~6世紀に近畿に伝来した。その後はBC1世紀頃に関東、その後に東北と進展して行ったと思いきや、BC4世紀には東北・青森地方まで伝来されている。日本海の海伝いなのか分からないが、関東より早く青森まで到達していることには驚く(11)

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 (8)北緯41度の水田遺跡:一般に水田稲作は熱帯ジャポニカという米種を扱う事から北緯39度以下で多くの稲作遺跡が見つかっている。それより寒冷地である北緯41度に水田遺跡が存在することは驚きである。NHKスペシャルでは静岡大学佐藤先生がその理由として熱帯ジャポニカ米と温帯ジャポニカ米から品種改良したものは育ちが速く(早稲)、そういう品種改良が既に行われていたと説明。

 (9) 垂柳遺跡:今から2000年前の弥生時代中頃の水田。2000年前と思われる炭化米も出土。

(10) 国立民族歴史博物館が発表した水田稲作伝来のルート

 

東北の現在青森に伝来する時期が関東地方より早い。不思議なのは、弥生時代には北陸・新潟・秋田南部でも平地はあったはずだし、環境温度も同じはず。何故一気に青森県までワープするのかこの図面だと分からない。

 (11)北東北の畑稲作と水田稲作の伝来ルート:東北の北限青森の地域は、後で出てくる三内丸山遺跡のような集落跡まで出てくる。青森県(北東北)は日本の成立過程においては北海道やロシアからの直接繋がるルートを想定することもできるのではないだろうか。

 この観点で“寺沢薫;”日本の歴史2 王権誕生、34−35ページ、講談社(2008/12月)“という本の中にあった水田稲作と畑稲作(後述する焼畑農作)の二つの伝来ルートがあった。

 水田稲作が東北に到達する1000~3000年位前(BC5000~2000年縄文時代前期~中期)に、同じ青森県では人々の定住生活を物語る集落(ムラ)が出来ていた。有名な三内丸山遺跡である。弥生時代以降とされていた古代の集落(ムラ)発生の背景が見直されたことになる。寒い地域なのに、集落(ムラ)という定住生活が行われていた事を三内丸山遺跡が語っている。

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 また、時代は進み今から3000~2300年前の紀元前1000~300年頃の縄文晩期になると、やはり同じ青森県で亀ヶ岡土器が出土した亀ヶ岡遺跡がある。あのサングラスをかけたような遮光器土偶が有名である。現在の津軽市にある亀ヶ岡遺跡には貝塚を含む集落跡があった。この土偶や土器は縄文時代の集大成といえる技術と英知を示し、北海道から東北地方を中心に日本列島全体に影響を与えた文化と言われている(12)。土器は食べ物を炊たり煮たりするために使うので、縄文晩期ともなれば、安定した収穫できる穀物や木の実などを食していたことになる。また土偶はその生活を安定させるための祈りをささげるものだろう。

 (12)亀ヶ岡文化参考URL

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 では何を食べていたのだろうか。

 三内丸山遺跡ではブナ科の栗が栽培されていたという(13)。ドングリ・クルミなど堅果類が主要な食物資源として縄文時代から食されていたと考えられている。東北方の河川にはサケなども遡上し、森には鹿などもいて食生活は恵まれていたかも知れない。そういう観点で過去見た事のある縄文人の食材を表した縄文カレンダー(秋田県HPから引用)を見ると多くをうなずける(14)

(13)ブナ科:どちらかと言うと東日本から南北海道に生息する寒い地方に分布する落葉広葉樹林。暖かい地方に生息する照葉樹林と対比され、日本の気候の冷暖分布を分析するのによく使われるようだ

(14)縄文カレンダー:日本の考古学者、小林達雄(国学院大学文学部名誉教授)が提唱したもの。

 最近まで弥生時代と言えば水田稲作が始まった時代としか認識していなかった。が、縄文稲作という焼畑式稲作(15)があった。中国長江流域やラオスでは今もこの焼畑式稲作が行われている。

 焼畑という位なので稲の種をまく前に畑を焼く。これが栄養になって畑に稲ができる。畑を焼けばいいので、山地の傾斜で、勿論平地でも出来る。要するにどこでも簡単に育てることができる。意図的に行ったと思われる縄文稲作の形跡は今から7000年前に中国の長江下流域の江南地方の河姆渡(カボト)遺跡(Hemudu Site Museum)で発見された。

(15)縄文稲作:静岡大学の佐藤教授の資料には縄文稲作と水田稲作が整理されている、縄文稲作の開始時期は、今から7000-8000年前(BP)(BC5000-6000年)である。補足(10)の国立民族歴史博物館資料を参照すると、水田稲作は長江下流域からBC5000にスタートしている。一方、佐藤資料にはその前にあたる7000-8000BP、つまりBC5000-6000に長江中流域と下流域に赤の領域がある。特に、長江下流域の河姆渡(カボト)遺跡では野生種とは異なる熱帯ジャポニカは発見されたことで有名という。

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 ここから日本への伝来ルートなどは分からないが、江南地方の人々は農業と漁労生活(半農半漁)をしていた。NHKスペシャルでは半農半魚の人達が漁労に行く際に米を持って行った。漁労の間、その米を炊くために土器(鍋)は当然として米自体を持って行く。そこで海で遭難して流れ着く先の一つに対馬があり、そこに漂流した人達が生きるために米を撒いたようだ。対馬では古米(赤米)が今も作られ神様として神事に使い、また農業と漁労生活を送る人達もいる。中国からの伝来と言われる縄文稲作の米種は熱帯ジャポニカ(16)と言われ、暖かい地域で栽培されるもの。しかし、縄文後期(紀元前2000~1000年)には青森県八戸市是川遺跡(17)では土器包含層から稲の遺物が出土していることから現在の青森県でも縄文稲作が行われていたことになる。東北では水田稲作が行われる前から縄文稲作で熱帯ジャポニカ米を食べていたことになる。

(16)熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカ

 

イネ属には29数種類の栽培種と野生種が含まれる。栽培種はアジアイネとアフリカイネに大別され、アジアイネは歴史と地域の環境によって数万種に及ぶそうだ。アジアイネはインディカ種とジャポニカ種に分かれ、ジャポニカ種は熱帯と温帯ジャポニカがある参考。アジアイネの栽培地域は、温帯ジャポニカが日本と朝鮮半島、熱帯ジャポニカが中国北部、インドネシア、インドシナ半島山間部、インディカ種が中国南部からインドシナ半島、南アジアとはっきりと区分されているようだ

(17)是川遺跡からのプラントオパール出土:佐藤洋一郎著、“縄文農耕の世界”

 

プラントオパールとは米成分に含まれるケイ酸(SiO2、岩石やガラスの成分)という物質はガラス質のケイ酸体の形で特定の細胞に蓄積する性質がある。一種のガラスなので長い期間地中に残っても土中で分解される事なく残るので、このプラントオパールを検出しその形状を観測してどの種類のジャポニカであったとか分析できる。上表はその縄文ジャポニカが日本のどこで出土したかを示した資料。

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NHKスペシャルでは九州から伝来したとあるが、熱帯ジャポニカが注釈(11)で示したルートで直接東北にロシア経由で伝来する可能性はないだろうか。しかし暖かい地域を好む熱帯ジャポニカが寒い時代の東北地方に伝来しても撒いても米にならない。縄文時代で現在よりも数℃高かった西暦紀元前2500年前であれば撒けば育ったかも知れない。つまり、縄文時代中期前(西暦紀元前2500年以前)縄文稲作が東北地方に到達していた事にならないか。東北の地に水田稲作が到来するはるか2000年か2500年前には意図的に人が育てる稲作が行われていたことになる。一方、水田稲作の米種は温帯ジャポニカと言われ、水田が必要で収穫までに時間がかかるのが特徴。それに比べて熱帯ジャポニカ米は収穫も短く水田不要のため縄文稲作が先行した理由が理解できる。


 生活の基本となる食材取得となると縄文時代の東北地方の気温も関係してくる。

 古代の東北地方の気温を調べると、縄文時代には石器時代から続いた寒冷期が縄文中期までに現在より+約3℃気温が上昇し温暖期へと推移。晩期に向けてはまた寒冷化したという(18) 

(18)縄文時代の気温変動: ちなみに、現在地球温暖化が叫ばれる中、100年前くらい前から日本の平均気温温度はどの程度上昇しているのか分かり易いデータがあったので添付する。出典は気象庁。筆者の生まれた1950年半ばから現在を見ると+1℃上昇している。小学時代から思い起こすとこの平均気温+1℃というのは最近の異常気象とも絡んで体感している。今世紀末には更に数℃上がるとすれば、筆者が感じた温度上昇以上のものになる。CO2の排出規制が本当に必要である。

 平均温度3度変動と言う事は生活的にどのような影響を与えるだろうか。余りピンと来ない。

 理科年表(平成11年度)を使って日本の各地域の平均温度を調べてみた。その結果が下図である。

 各地域で1月から12月までの各月別平均気温変動がある。これらの月別平均気温を更に平均し赤ラインで示し、ここから東京を中心にして各地の1年間の平均気温を見ると、北の網走では約10度低く、南の那覇では7度高い。

 さらに、温度差3℃という感触をつかむため、東京の平均気温からの差分(プラスマイナス3度)を追加する。仮に東京で平均気温が3℃高くなった場合を緑ラインで示したが、東京に住んでいる人達は鹿児島当たりで生活することになる。 

 一方、現在よりも3℃低くなると新潟、仙台、山に囲まれる松本辺りで生活することになる。3℃という平均気温の上昇下降は同じ日本でも生活する場を変えるか、住生活の見直しが必要になるレベルとなる。気温が高々3℃増減するだけで人間の住環境が大きく変わることが分かった。

 そう言えば、2015年の夏に太平洋沿岸の海水浴場近くにサメ出現というニュースが流れた。海水温度の上昇(伊豆半島沖で約9度差)が影響(19)したという。もし昔から海水温度が通常より高かったら我々はもっとサメを食べる文化があっただろう。

 (19)2015年7月と8月の海水温度分布:神奈川県水産技術センターより。伊豆沖で約9℃高いのが分かる。


 縄文時代から、気温変動、水田稲作が伝来する前からの定住性の話、食材の話を見てきたので、次に気になるのはそれらの生活形態を通じた日本の人口変動も気になる。

 縄文初期から現在までに至る地域別推移データ(20)を元に日本全国とその内訳としての”東国“の人口推移も下図に示した。”東国“は北海道、東北(出羽、陸奥)、坂東、東海(静岡・愛知・岐阜)、東山(山梨、長野)、北陸(新潟・富山・石川・福井)の合計とした。全国から東国を引いたものが畿内と西国になる。

(20)鬼頭宏;“人口から読む日本の歴史”、講談社(2000/5月)

 主な特徴は鬼頭氏の概要説明も付記して下記3点。

 

  1. 縄文中期に向けて平均気温が上がって順調に全体人口が単調に増加。しかし、縄文後期から晩期に向けて大きな落ち込み。寒冷化による食不足と縄文人と大陸からの人の接触による病による減少という。
  2. その後水田稲作時代に移行し平安初期まで増加。西暦0年弥生時代の中頃でやっと全体で100万人に到達。しかし鎌倉初期にかけて伸びは鈍化。水田稲作が加速し、奈良時代にかけて増加。一方、千年間で150万人程度の渡来があったと言う。減少理由は、当時の農作技術のもとで可能な耕地拡大と生産性の上昇が望めなくなったことと天災・大陸からの天然痘の流行。
  3. 同じようにその後は増加。また江戸後期辺りで減少。市場経済の発展が増加要因。減少は意図的な人口制限があったとのこと。

また、この時の地域別構成比率も下図に示した。

  1. 今から2900年前(紀元前900年)頃の縄文晩期まで全国人口の約90%は東国が占める。その中でも東北と坂東地域は60%と占める。
  2. 一方、畿内を含む西国は、縄文晩期まで10%前後しかいない。
  3. 縄文晩期までは出羽・陸奥・坂東の合計人口は60%でほぼ一定に対して、晩期以降から西暦0年の約1000年の間に20%まで激減。この激減の原因は平均気温の低下(寒冷期)が食生活の安定性を欠いた事。陸奥・出羽の縄文人が暖かい坂東、更に東海(静岡・愛知・岐阜)、北陸(新潟・富山・石川・福井)、東山(山梨、長野)や西国へと南下したのではないか。
  4. 東国と西国が均衡する最初は紀元前数百年頃。弥生時代到来と西国の人口増加が関係すると認識できる。
  5. 西暦700年前後の律令国家が成立してから現在までは東国と西国の相反する増減を示す。この相反減少は朝廷や幕府が何処にあったかを考えると何となくその理由が分かる。

 縄文時代の中期までの温暖化は東北地方の人々に生活の活力を与え、山海の生物の狩猟ばかりではなくクリなどの安定した食材の育成、縄文稲作などで生活を安定させた。一方、西国は縄文時代には生きてゆくための自然の恵みが足りず、それだけに水田稲作という自ら作り出せる食材と生活の安定性については受け入れが早かったと言えるだろう。

鬼頭氏の本の中で、“人口増加の法則”の紹介がある。生物が生きてゆくには一定の食糧と空間が必要という考え方がある。

アメリカの生物統計学者二人が、ならば豊富な餌と広い空間を準備してひとつがいのキイロショウジョウバエを入れて個体数の増加傾向をおさえる実験的検証をした。その結果、初めはゆっくりと、そして次第に増加速度が高まり、ある水準に達すると増加率は落ちほぼ一定数になった。過去から言われていたS字形増加曲線(ロジスティック曲線)を証明した。確かに日本は大陸の端に位置し、大規模な人口流出や増加が起こる土地でもなく、上記のショウジョウバエの結果と同じことを長い時間をかけて進めているようなものだと思う。そう言えば、今年10月29日に中国が36年続けた一人っ子規則を廃止するという大きなニュースが流れた。


(2-2)律令化と東北・坂東の位置付け

3世紀から始まる古墳時代はヤマト(7世紀後半から律令時代ができる前の王権?を一応ヤマトと書いた)における権力者の埋葬を手厚く祭ることにより、その威厳を示す慣習(規則)である。奈良以外で古墳が発見されるということはヤマトに従属したことを意味する。矢板周辺の古墳(21がある土地にも既にヤマト国に従う権力者が居たかヤマトから来た権力者が埋葬されたかを意味する。

(21)矢板周辺の古墳:2014年版で書いたように、代表的には那珂川と箒木川が合流する大田原市湯津上にある上侍塚古墳などがある。

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 この地区で一番古いのは駒形古墳。築造された時代は3世紀後半のようだ。つまり、この地区は3世紀にはヤマトに恭順したはず。またこの近くにある那須国造(ナスノクニミヤッコ)碑に書かれている年号は日本のものではなく唐の則天武后時代に使用された永昌元年(689年)とある。しかしこの年号はわずか1年しか使われなかった年号だとか。たった1年しか使われなかった年号が何故那須の地で知っていたのかという理由としてかつて朝鮮(新羅)も中国に朝貢しており最新の年号を知っていた可能性があり、かつその人達が既に那須に渡来していたのではないかという説がある。これが本当なら3世紀前には那珂川市辺りはすでにヤマト王権に恭順し、また朝鮮からの渡来人も来ていた土地になる。それだけ中央ヤマトから信頼される人(那須直韋提:ナソノアタイデ)が律令時代初期の那須の国を纏めた。それが西暦700年に没し、その権威を残すために国造碑が建てられたとされる。また日本書記には当時の新羅人を下野国に居住させたと残っているとのこと(大田原市HP

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岩手県奥州市にある角塚古墳は日本で最も北に位置する前方後円墳。畿内ではもう前方後円墳が作られなかった6世紀前半に築造された。しかし、東北の歴史はヤマトに従属したからハッピーエンドではなく、その後に7世紀中頃の律令化が進む頃から約170年間にわたり、中央と地域の蝦夷(エミシ)(22)や俘囚(フシュウ)(23)との間で大きな戦いが繰り広げられた。要するに律令化により中央集権化する動きに対してヤマトから遥かに遠い土地に住む人達を行った事も見た事もない上で一定の規則(律令)の元に縛り付けることが始まりと思う。

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(22)蝦夷(エミシ):蝦夷は元々当時の中華思想として中央に恭順した国々以外はイテキとされた。当然日本においても中国を見習い律令化を進める上でも、中央に従わない人々(マツロワヌ人々)を蝦夷とした。東国が先ず蝦夷とか毛人と言われた。どこからが東国かと言えば、美濃国(岐阜県不破郡関ケ原町)の不破の関、伊勢国(三重県亀山市)の鈴鹿の関、越前国(福井県敦賀市)の愛発の関より東側が全て東国だった。それが、時代を経ると坂東(関東より)北が東国になった。また明治初期まで北海道(北海道という名称は19世紀初めに間宮林蔵が付けた)は蝦夷と書いてエゾと呼ばれた。蝦夷の定義は時代を捉える必要がある。

(23)俘囚(フシュウ):律令国家に服属した蝦夷に対する呼称。8世紀初頭から九州までの諸国に移配され、食糧や禄の支給など幾つかの優遇処置を受けた。しかし、中央からの過度の支配のためか9世紀以降になると出羽国など各地で俘囚の反乱がおきる(代表例が878年の秋田でおきた元慶の乱)。

日本最北端の角塚古墳が築造されてから約100年後の645年に大化の改新を迎える。律令化に向けて東北の地域には、早速2年後の647年に日本海側の蝦夷統治のために淳足柵(ヌタリノサク)(24)、648年には磐舟柵(イワフネノサク、新潟県村上市付近)が設けられた。柵は当時、中央から官人を派遣し、柵戸(サクコ、あるいはキノヘ)(25)などの移民を導入し、平時は官衙(カンガ)(26)として機能させたものが多いと言われている。つまり市役所を中心にした街のような機能を発揮していた。まだ納税していない地域に郷(柵)を作り、周りの郷を纏めてひとつの国(出羽とか陸奥国)にしてゆくやり方。従って、城柵は律令国家推進の源泉である税をとる中央と税など支払わぬ人々(蝦夷)とが接触する最前線である。その結果、城柵を中心に蝦夷と中央の戦争が起きる。城柵の作成年代を下図に示す。

(24)淳足柵:日本最古の城柵と言われ、現在新潟市内に沼垂(ヌツタリ)の地名が残っている。

(25)戸(サクコ、あるいはキノヘ):7世紀半ばから9世紀初めに陸奥・出羽、薩摩・大隅・日向のへき地へ城柵を設置するために移住させられた移民。柵戸を編成した後に群を置いた。身分は公民で課役を負担するが移住後一定の年限は免除された。

(26)官衙(カンガ):いわば市役所のようなもの。栃木県には2か所官衙遺跡がある。一つが宇都宮の南にある上三川町にある上神主・茂原官衙遺跡(カミコウヌシモバラ)と矢板の近くの那須官衙遺跡。共に東山道が中央に走るいわば役所。官衙と言われるには訳があり、政庁は当たり前として、祭司、宿泊所(舘)、正倉院のようなその地区での税となる米を保管する正倉域など正に政治を取り行う所。官衙がある所は郷となり郷を幾つか集めて国とするというように、律令化を推進するために各地域におかれた役所と理解している。

この反乱は一言でいうと、中央の積極的な東北政策が蝦夷の反発と抵抗を招いたこと。ある意味、支配する側とされる側の戦いである。しかし、話はそれだけではなく、支配された後の中央の扱いに対してもまた戦争が起きる。

 最初の事件が、東北地方の38年戦争の始めとなる774年石巻平野の北部にある桃生城襲撃である。7世紀半ばから恭順した蝦夷は定期的に上京朝貢(27)をし、701年の大宝律令施行以降は、中央の正月行事にも参加していた。

 一方、8世紀後半になって唐を頂点にする東アジア圏の秩序から離脱したことから国内の異民族をかかえる体裁を整える必要も無くなった。ここから蝦夷の朝貢も不要とし、定例化していた蝦夷の朝貢を停止したことだった。そのくせ、778年に110年ぶりに唐から使者がきた時には儀式のご衛兵に陸奥・出羽から蝦夷を出させている。蝦夷による桃生城襲撃も鎮守将軍大伴駿河麻呂が桓武天皇の一代前の光仁天皇に蝦夷攻撃を上程し決定した直後に先手を打たれたもの。この蝦夷は海道蝦夷と言われ、北上川下流域から南三陸沿岸にかけて勢力をもっていた。桃生城はこの蝦夷支配のために置かれたものだった。この後も光仁・桓武天皇の時代にわたり38年間続いた。中央の執拗な戦争である。

(27)蝦夷の上京と朝貢:中華思想に則り日本の中の朝廷も恭順した異民族(この場合は蝦夷)から貢物を納めることになっていた(朝貢)。朝貢の代わりに位を授けて、その関係を守った。だから蝦夷にも律令国家時代の位を授かったものも多くいるそうだ。

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蝦夷が朝貢し律令国家が饗給(キョウゴウ)する関係図として分かりやすいものがあった(参考)。出羽国(現在の秋田県、山形県)を中心にしたものである。

出羽国では特に蝦夷が育成する馬が鮭の貢納が求められたようだ。一方、この図にある渡嶋(ワタリシマ)蝦夷とあるがこれは今の北海道の人々である(この頃、北海道は縄文時代が終わった後の擦文時代。北海道歴史を語り始めるとオホーツク文化まで遡るので割愛)。つまり、この図は出羽国に限ったものだが、米やそれ以外の地域特産品も入れた利益拡大・安定性の争奪戦が蝦夷との戦いの源と考える。

780年には現在の宮城県にある多賀城の襲撃がある。これは、伊治公呰麻呂(コレハリノカミ・アザマロ)が反乱を起こした事件。そもそも呰麻呂は蝦夷であるが、律令国家から外従五位下という位をもらった人間である。

呰麻呂は部下を率いて今の岩手県南にある奥州市水沢区にある胆沢(イザワ)や志波方面の蝦夷と国家からの遠征軍と共に戦った。この頃はその地域の蝦夷の酋長がリーダーであったが、789年同じ現在の水沢付近に居た阿弖流為(アテルイ)との戦いでは幾つもの蝦夷集団が阿弖流為に率いられて戦った。この戦いは、802年に栃木県矢板市の木幡神社に先勝を祈願した坂上田村麻呂が征夷大将軍として終結させた(28)。また、この三年後の805年、桓武天皇は蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言して806年崩御。共に大きな資金が必要であり人々を苦しめないための宣言であった(藤原緒嗣(オツグ)の提案。徳政論争)。その政策転換と坂上田村麻呂の意志を継いだ文室綿麻呂(フンヤノワタマロ)が811年38年戦争を含み約170年間に及ぶ戦いを終わらせた。

(28)阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ):坂上田村麻呂との戦いで蝦夷の戦士500人と共に投降し戦いが終わった。その後、田村麻呂はアテルイとモレを桓武天皇に在地の蝦夷を傘下に収めるにはアテルイらが必要と延命を申し出た。しかし、その甲斐もなく河内国で処刑された。アテルイとモレの碑は、現在京都の清水寺の境内にある。これらの碑の建立は現在の岩手県奥州市水沢区の人々がアテルイの復権を願った活動の一環である。

しかし、これで一見落着かとはいかず、今度は天災や疫病が東北地方の人々を苦しめる(下表)

830年秋田で大地震、869年には千年に一度と言われる貞観地震が東北を襲った。秋田地震だけではなく疫病もはやりその後の農業不振と天変地異の繰り返しで出羽の国の経済は停滞する。それにも関わらず血も涙もない秋田城司の苛政が原因となって878年今度は秋田で俘囚が中央と衝突した(元慶の乱)。

更に中央はこれら蝦夷と戦うにあたり、「夷(イ)は夷をもって制する」といって恭順した蝦夷、つまり俘囚を戦いの最前線に登用した。ある意味、隣接して生活していた住民が中央によって引き裂かれ殺し合いをするという悲しい事件である。俘囚は東北の戦争だけではなく弓馬に長けるものは九州まで連れて行かれた。蝦夷との戦いは1051年前九年の役(阿部氏との戦い)、1083年後三年の役(清原氏との戦い)と続き、1189年源頼朝による奥州藤原氏の滅亡を経て鎌倉時代の末期1320年蝦夷大乱まで続いてしまう。阿部氏も清原氏も奥州藤原氏も中央からみれば元々は蝦夷であったためと言われている。

 一方、東北の蝦夷と戦うための後方支援基地が兵站(ヘイタン)基地(29)。それが坂東であった。これも中央からすれば、元々坂東も東の国に住む蝦夷だったので、「夷は夷をもって制する」はここから始まっている。

(29)兵站基地(ヘイタンキチ):戦争を行うために、後方に構え軍備や兵士の供給基地のようなもの。このために刀などの鉄器の工房も坂東にあったはず。

 これらの蝦夷のリーダーは、中央とは付かず付かれない緩い関係で、ある意味中央に頼らずとも別の独立した国造りを構想したのではないかと思う。

 その代表例として東北ではないが、935~941年坂東の下総国で起きた平将門の乱がある。桓武平氏の高望王(タカモチオウ、平姓を受けた初代平氏)の孫になる将門が起こした乱。最初は既に坂東に居た平家一門の内輪もめから発展した乱と言われる。坂東各国の調停役をしていた親分肌の将門が武蔵国の調停作業をやり始めた後位から付いた部下がいけなかったのか下野国府を契機に坂東諸国の国府を襲い、各国の印鑑を盗んだ。こうなると律令国家のベースになる坂東各国の国府を襲うことから当然国家に反旗を翻す者となった。自らを新皇と称したが、その命も平清盛の祖先となる従兄の平貞盛が放った矢によって数カ月で終わってしまった(30)

 奥州藤原氏一族も1087年の後三年の役で勝利した藤原清衡から源頼朝に滅ぼされる1189年(31)までの約100年間、1124年建立平泉中尊寺金色堂に見られるような栄華を極めた。歴史に“もし”はないが、もし、将門も奥州藤原氏も東日本で立国していたら朝鮮半島のように東日本と西日本という二国になっていて東海道新幹線に乗る前に出国手続き(32)が必要だったかも知れない。

(30)平将門の関連寺社:茨城県坂東市に国王神社がある。将門の三女・如蔵尼が最期の地に創建。その場所は15年9月に常総市より南の地帯で鬼怒川が決壊した所の近くにある。坂東市は常総市の西隣に位置する。国王神社から南南東約4キロ先に延命院というお寺がある。ここの境内には将門の胴塚がある。頭部が一夜にして京都から坂東に飛んできたという話は有名なので割愛。

(31)源義経と奥州藤原氏の滅亡:義経は源平合戦の勝利にあたってその功績から後白河天皇から官位を授かったことや平氏との戦いでは独断専行によって頼朝の怒りをかい朝敵にされてしまった。奥州の藤原勢は関西以西を制覇した頼朝勢力が奥州に及ばないようにするため、その義経を一旦匿うが暗殺に寝返る。しかし匿ったことから頼朝に滅ぼされた。

(32)東国と西国の歴史:大阪と東京ではエレベータで道を空ける方が違う(東京は右、大阪は左をあける。その中間の名古屋は右を空ける)。東国と西国の歴史を紐解いた歴史書があったので紹介する。

 

網野善彦;“東と西の語る日本の歴史”講談社(2014/7月)この本には石器時代、縄文時代に遡り、既にその時代にあった東と西の生活道具、食材や環境の違いが現代まで繋がっているとある。確かにと思う点が多々ある。


(2-3)人と馬の歴史

 縄文時代の古代から狩猟生活だけではなく稲作に励んだ東北の人々は元々狩猟を得意としていた。やがて馬に乗り弓をもって領土を拡大する戦いが起きた。坂東が蝦夷の兵站基地であったこともあり、このスタイルは陸地で戦うためのスタイルになり、やがて鎌倉時代に向けて武士の誕生に繋がって行く(33)。結果としては、東北での騒乱は馬との付き合いを濃くしたことになる。今でも鎌倉の鶴岡八幡宮で毎年4、9,10月に開催される流鏑馬は中世武士の代表的武芸である。弓馬の達人が戦いを制した。

(33)源頼朝の巻狩り:那須塩原駅西口のロータリーに大きな鍋の横に喫煙所がある。ここには前報で書いた九尾のキツネ像がある。それと駅との間に何やらコンクリートで作ったオブジェがある。しかし、これをよく見ると、源頼朝が那須野ヶ原に向かい巻狩りをしている様子を表していた。1192年鎌倉幕府を開いた頼朝は翌年4月3週間にわたり自らの勢力を天下に知らしめるために広大な那須野ヶ原を中心に大規模な巻狩りを実施。巻狩りはたくさんの勢子(セイコ)が一斉に獲物を追い込み、武将達が獲物を射る狩りのことだそうだ。

 前節までのように、7世紀後半からの大化の改新以降、馬が兵馬、伝馬など活躍している。飛鳥時代の頃には諸国牧が出来始めた。諸国牧は兵部省(34)が管轄する牧。18カ国に馬牧24か所、牛牧12か所、馬牛牧が3か所あった。毎年5歳になると九州・近畿周辺の近都牧に送られた。ここでも中央には馬が東国から献上されている。多くは東国で馬は育成され西国・近畿に送られた。戦う馬、伝令する馬、働く馬など人間との関わりが出てくる。

(34)兵部省(ヘイブチョウ、ツワモノノツカサ):律令制下の八省のうちのひとつ。軍政(国防)を司る行政機関。

 一方、5世紀中頃からの古墳からは埴輪馬も出土している。日本に馬が渡来したのが古くても弥生時代末期頃と言われている。4世紀末から古墳の副葬品(参考)として出現し、5~6世紀に広く普及したようだ。

 馬の埴輪の出現が4世紀末とすると、遅くとも日本に馬が来たことになる。そう思って調べてみると、馬は「四世紀以後大陸から飼育技術とともに本格的に移入されたものとみられる。馬は軍用・輸送用・農耕用などに使用され、古代には馬飼部があり馬の飼養にあたる部民がいた」とあって、古代から軍馬がいたことが記述されています。とあった。

 (2-2)節で書いた蝦夷の戦いより約200年遡った5世紀頃とは、は中国に朝貢した倭の五王の時代に当たる。馬埴輪と一緒に埋葬される位だからそれなりの権力者が想定できる。最後の倭王・武(ブ)が第21代雄略天皇(大泊瀬幼武尊:オオハツセワカタケルノミコト)あたりが馬に乗って戦乱を巻き起こしていたかも知れない。

 今の埼玉県行田市にある稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀に書かれた擭加多支鹵大王(ワカタケル大王)がその人と言われている。

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 この大王は周辺諸国を攻略して勢力を拡大したと言われ、まだ朝廷としての組織が未熟であったものを雄略朝においてヤマト王権の勢力拡大強化がされた歴史的な画期であった見られている。これだけの距離を移動するには歩きでは無理で、舟も考えられるが馬での移動もあったのだろう。

 中国では西暦紀元前3世紀の秦の始皇帝陵の近くにある兵馬俑抗には中国全土統一に必要だった軍隊の構成を示す兵馬の像が見られるという。雄略天皇の5世紀から約8世紀の隔たりがあるが、日本の馬がこの間のどの時点から日本に本格的に登場してくるのかはまた探す楽しみにしておく。

 歴史は近代に飛ぶが、1878年(明治11年)に英国人中年女性イザベラ・バードが二十歳にもならない日本人通訳と二人で、横浜→江戸→日光→会津→新潟→米沢→秋田→青森→函館→紋別→白取まで日本奥地を旅した紀行文(35)がある。

(35)日本奥地紀行:イザベラ・バード著(高梨健吉訳)”日本奥地紀行”、平凡社

 明治11年(1878年)であるため英国のスパイ説もあるが、読む限り横浜と発ち駄馬と共に北海道の平取地区のアイヌ族まで行く姿は日本人の生きざま、しきたり、どこに行っても宿や食堂は蚤だらけなど当時の様子が実に丁寧に書かれている。これが紀行文の前半半分。後半は北海道から船で横浜に戻り京都、奈良、伊勢への紀行であるが、これは政治学者を思わせるような数字を使った分析が多くを占める。ちょっとスパイ的かなとも思えるが公に本を書いているのでそういうことは無いと思う。しかし、何と幅広い着眼と分析力、またスケッチのうまさがある人だと思う。

 バードは馬を交通手段として移動する。この紀行文の中でいつも馬は駄馬と書いている。当時の英国に居たスマートな気品高い馬ではなく、人(馬子:マゴ)が決められた区間を手で引いて歩かせる馬((35)113ページにあるバードのスケッチを借用)。運送機械のような馬だったが交通手段としては大切なものだった。また途中には暴れ馬を棒で叩きまくる調教の場面も登場する。とても武士を乗せた戦う馬とは程遠い馬と考えられるが東北の昔の調教というのはこういうものだったのかも知れない。

 日本では馬をいつ頃から食べたのか調べると、獣肉食は宗教上の禁忌とされ九州の一部(多分、熊本?)と除いて一般的ではなかったとのこと。一部がどこだが不明だが400年以上前(江戸時代の前あたりか)から重要なタンパク源として重用されてきたそうだ。

 最後に熊本と東北地方で食べられる馬刺しの違いは見た目では肉にサシが入っているかどうかとのこと。

 実際に熊本の馬刺しを食べた事はないが、ネットで調べてみると熊本県の背馬肉生産量が圧倒的に多いことがわかる(36)。昨年、会津柳津の温泉旅館で食べたサシの無い馬刺しを食べた時に、旅館のおばさんから“私ら福島人はサシがある馬刺しは脂っぽくて旨くない”と言っていた。サシのある馬は牛ではないがビールでも飲ませているのかと想像していた。しかし、これは全くの誤り。サシが入るのは体重が1トン近くになる大きな馬体をもった馬で、ばんえい馬(重種馬)(37)と言われるものであった。一方、福島や青森では軽種馬(38)と呼ばれる品種でサラブレッドに近い馬だそうだ。余分な脂分のないスマートな肉質になるので口当たりもさっぱりした肉と言われているようだ。

(36)農林水産省畜産物統計表の“馬肉”:確かに農水省のHPには調べると色々の畜産物の統計があった。

 

その中で日本における平成24年畜産物流通統計に地域別馬肉生産量の表がある(下表は28年度版に置き換えている)。

(37)重種馬:ばんえい馬のイメージは北海道で開催されるばんえい競馬に登場する馬を想像すると納得する。バードが乗った馬はこんな馬ではなかっただろうか?確かに、力仕事に向いた体型をしている。

(38)軽種馬:運動能力が高く背中がなだらかなので長時間乗っても疲れないとのこと。

 

確かに、重種馬とは体型が違い、サラブレットを彷彿させる。これに乗ったら長時間疲れず、素早い移動や戦いに向いている。鎌倉の流鏑馬や南相馬市の相馬野馬追祭りに出てくるような戦いには絶好の馬種と納得する。


§4.さいごに

一応、坂東と東北地方の歴史を観て、馬との付き合いもほんの少し調べて、サシ有り無し馬刺しの違いまで辿り着いた。これで第二報を終えて、気持ちよく登で馬刺し、タケノコ、塩ちゃんこを食べることにする。

 

 

2015年11月吉日