(縁者のみ閲覧可能)
2022年2月5日に父母の47回忌と33回忌法要を行うのを機会に、我が家の過去帳と家系図を作ることにした。昔に流行ったルーツ探しでもある。
3年前の2018年7月に自宅を売り買い同時に行い、二人の子供家族の近くに新たな居住地を設けた。引越しから三日後に長年お世話になってきた仏壇を整理していたら、当時47歳の父が1940年(昭和15年)に三重県津市白子に行った三泊四日の「訪郷記録」が出てきた。2021年現在から80年前の貴重な資料であった。
中身を見る限り、菩提寺や墓石の調査、曾祖父(杉野吉太夫)の遺産を祖父(杉野勘三郎に相続する手続きなどのための足跡が書かれている。過去帳を作る際の足掛かりにすべく保存してあったので、昨日からこれを参考にして、本格的な過去帳と家系図を作成した。
このページでは、以下のテーマを取り上げている。
杉野勝男作 「訪郷記録」の転載にあたって
資料は、2018 年7 ⽉27 ⽇(柏ビレジ引越しから三⽇目)に、新居に仏壇を設置している時に仏壇の整理箱から⾒つけたものである。以前から、杉野家のルーツが三重県津市であることは知っていたが、2006 年5 ⽉~2012 年4 ⽉まで6年間三重県津市に単⾝赴任の間に菩提寺などを⾒つけることが出来なかった。
本資料には今から80年前の昭和15 年(1940 年、太平洋戦争の開戦1年前)に、⽗・勝男(47歳)が3泊4⽇の強行スケジュールで横浜から現三重県鈴鹿市⽩⼦に行き、曾祖父・杉野吉太夫の遺産相続や菩提寺の墓碑を調査したことが書かれている。
菩提寺には、先祖代々墓が全部で5基あったようだ。
墓石1:先祖代々墓 江戸時代・嘉永⼆年四⽉建⽴(1849 年4 ⽉)
恐らく曾祖父(杉野吉太夫)が建立
墓石2:釋 喜岳宗貞信⼠ 【杉野吉太夫の父と推察される 79才、1763年1月16日没】他、女性1名
墓石3:釋 芳室貞善信⼥【杉野吉太夫の母、1791(寛政3)年9月3日没】他、女性1名、男性1名
墓石4:釋 観融道閑信⼠【関係不明、1828(文政11)年2月9日没】他、女性2名
墓石5:釋 覚成妙易信⼥【関係不明、1829(文政12)年6月4日没】他、女子供1名
単⾝赴任中は⽩⼦駅から七つ目の江⼾橋駅近くに住んでいた。出張帰りに名古屋駅から近鉄特急で⽩⼦駅まで来て鈍⾏を待つ間、ホーム端にあった喫煙所で⼀服しながら⾒ていた⽅向が菩提寺(⻘龍寺浄⼟真宗⾼⽥派)のある場所だった。縁と⾔うのは不思議なものである。
80 年前に書かれた本資料は、ルーツを知る貴重なものである。読めない崩し⽂字はウェブで調べなが
ら転載した。転載にあたり、幾つか原⽂では落ちている個所などがあるので、以下の補⾜を行った。
⾚⽂字:原⽂にない補⾜
●印:判読できない漢字
緑⽂字:墓⽯に残る記載のうち︑略されている個所の補⾜
⻘⽂字:墓⽯にある没年と故⼈の対応以上
なお、親戚関係と思われる中軸家、松嶋家の菩提寺(やはり津市市内)や墓碑があるが、杉野家のみ転載を転載した。
以下は、「訪郷記録」に記載されていた先祖の没年と父までの没年を合わせたものを整理した資料である。
横浜にある「杉野家先祖代々墓」に彫られている家紋と同じものを探して、「丸に四方剣花菱」であることが分かった。
家紋のいろは-日本の家紋に関する情報サイトは、実によくできたHPである。-
解説文を読ませてもらうと、
花菱は大陸から伝来した菱ということで「唐花菱」ともいわれる連続文様。正方形に描いたものを「花角」、花弁が5枚のものを「唐花」という。なお、花とつくが実在しない。
平安時代には有職文様として公家の装束や調度品にあしらわれるようになった。家紋の使用氏族が「菱紋」と近いことから、菱紋の変形紋と認識されている。
・花菱紋の使用家
武田、東條、松田、種村、安芸、板倉、五島、南部、松前、柳沢、伴野、小堀、河野など
・花菱紋の使用地域
山梨、東京、山口、徳島、九州
これも良く出来たサービスに、苗字由来netがある。
「杉野」で調べると、何やら下記のように列挙されている。上記したように、「杉野」苗字が多い地区が書かれていると思うが、①「桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)」の事はどこか別のHPで読んだことがある。また、少なからず我が家のルーツは後述する菩提寺・青龍寺の所在地(現在の三重県鈴鹿市白子)から白子や津周辺と想定されるので、「④の現三重県である伊勢」もそう間違っていないかも知れない。
①桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)。
②中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)などにもみられる。
③現山形県、秋田県である出羽。
④現三重県である伊勢。
⑤現岐阜県である美濃に有名氏族。
⑥織田家などを輩出した現愛知県である尾張。
⑦現香川県である讃岐。
⑧現石川県である加賀、徳島藩にみられる。
そう言えば、津に単身赴任中だった時に、三重県津から伊賀市伊賀上野まで通っている伊賀街道の津に近い所に「平氏発祥伝説地」があることを思い出した。
場所は、津駅から直線距離で約5キロのところにある。
グーグルマップにアップされている看板の写真を見ると、伊勢湾側は北から桑名、四日市、白子、津、松坂、伊勢と広い範囲にわたっている。
伊勢平氏発祥の地についての解説看板(津市教育委員会)の文言と系図を読み取ると、
一版に「忠盛塚」と呼ばれるこの地は、正式には「平氏発祥伝説地」といいます。この塚は、平忠盛が生まれたときの胞衣胎児を包んでいた膜や胎盤など。 後産 あとざん として体外に排出される)を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、忠盛が産湯を使ったとされる産湯池も載っています。
桓武天皇の曾孫・高望王(たかまちおう)を祖とする平氏は、はじめ東国に土着し勢力を張っていました。しかし平将門の乱(939年)や平忠常の乱(房総三カ国”上総国・下総国・安房国”で1028年に起きた反乱。関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱)以後、東国は源氏の地盤となり、貞盛の子・維衡(これひら)の時に伊勢・伊賀を本拠地とするようになり、寛弘(かんこう)3年(1006)維衡は伊勢守に任じられています。
「平家物語」には眇(すが)め田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子(へいし)は素甕(すがめ)なり」とはやし、あざけったとあります。維衡の曾孫正盛は白河法王の信任を得て中央政界に進出し、その子忠盛は正四位下但馬守に進み、武士として最初の昇殿を許され、平氏繁栄の基礎を作りました。
ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、「尊卑文脈」には維衡の孫・貞衡とその子・貞清は、安濃津三郎、貞盛(貞清の間違い?)の子・清綱は桑名富津二郎と傍注(ぼうちゅう:本文のわきに書き添えた注釈)され、北勢から中勢に」かけての勢力伸張がうかがわれます。貞衡の弟・正衡の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏では傍系にあたりますが、忠盛の昇殿、清盛の活躍により、伊勢平氏=忠盛と理解されるようになったと考えられます。そして、貞盛系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の郎従となり、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。
以上、津市にある「伊勢平氏発祥伝説地」の看板を見てきた。
一方、「平家物語」では平安時代の末期・元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に平氏は滅亡するが、上記の看板にある勢力範囲と家系図を参考にすると、伊勢平氏の祖・維衡の孫・定衡、曾孫・貞清は「安濃津三郎」と言われていたとある。ということは、「伊勢平氏」との縁戚者や関係者が、鎌倉時代から現在の令和時代まで白子や津の近辺を生活拠点としていても無理な推論にはならないだろう。
また、家族ルーツHPの「三重県のご先祖調べ」を読んでみると、
■戦国期以前の三重県と名字
(中略)伊勢平氏の流れを汲むものに、庄田・伊勢・鷲尾・桑名・三重・杉原・焼野・本郷・本梨などの諸氏があります。
この中に「杉原」と「焼野」という名字が書かれている。
ここからは上記の調査結果を踏まえてまとめてみる。
(1)杉野の苗字のルーツ
根拠のない想像になるが、昔の名字はその地域名を使っていることから、
補足:漢字「野」の意味
自然のままの広い平らな土地。田んぼ。飾り気のない。ありのまま。
補足:漢字「野」の由来
大地を覆う木と区画された耕地、土地の神を祭る為に柱状に固めた土、機織りの横糸を自由に走らせ通す道具の図をすべて組み合わせて生まれた漢字。
(2)杉野家の家紋のルーツ
家族ルーツHPの「三重県のご先祖調べ」に書かれている「三重県の家紋」を読むと、
■三重県の家紋
三重県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、三重県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 片喰 2位 柏 3位 桐 4位 木瓜 5位 鷹の羽
6位 藤 7位 梅鉢 8位 橘 9位 蔦 10位 目結
日本の十大家紋と比べると、沢潟紋と茗荷紋がランク外となり、かわりに梅鉢紋と目結紋がランク入りしています。
三重県は伊勢平氏、藤原氏の勃興地であり、その関係からか藤紋や蝶紋が見られます。
南北朝時代に伊勢国司として勢力を持ち戦国大名となった北畠氏は、村上源氏中院家庶流で笹竜胆紋です。
とあり、杉野家の家紋である「丸に四方剣花菱」につながりそうな紋はないようだが、家系図職人HPから、三重県の家紋ベスト1位の「片喰(かたばみ)紋」を調べると、なんと!
「丸に四方剣.....」という文様がある。片喰は実際にある花であるが、この花の部分を実在しない「唐花(文様)」に置き換えると、ドンピシャに杉野家の家紋と整合する。
上図にある「丸に四方剣片喰」と「丸に四方剣花菱」を比較したものが下図である。
杉野家の家紋「丸に四方剣花菱」
花菱は大陸から伝来した菱ということで「唐花菱」ともいわれる連続文様。正方形に描いたものを「花角」、花弁が5枚のものを「唐花」という。なお、花とつくが実在しない。
以上のことから、
母の実家の記憶は、母方の祖母センの法要(三回忌か?)のため、麻布山・善福寺の寺中寺である善正寺から少し下った処にある井戸の近くで母方親戚縁者と写真撮影したシーンから始まる。
少し、現在の善正寺界隈の様子を見てみよう。
実家は、港区麻布1丁目にあっり、浄土真宗本願寺派の麻布山・善福寺の寺中寺(寺の中に創建された寺のこと)である善正寺である。善正寺の創建年をネットで調べると、1582年(天正10年、本能寺の変)、今から439年前になる。一代の年間と単純に30年とすると、14代から15代この地にあり、現在も続いている。
また、江戸時代の古地図でも善福寺があり、その寺中寺として善正寺と書いてある。下図に善正寺の場所にフラグを立ててある(このフラグで善福寺の文字が消えてしまっているが)。現在の地図感覚に合わせるように、この地図に書かれている方位をもとに、原図を右90度回転している。
以下が、善正寺周辺の拡大図である。確かに、善福寺の寺中にいくつかお寺がある(寺中寺)ことが分かる。
一方、麻布山・善福寺は、あの有名な米国の初大使であるタウンゼント・ハリスが公使館として使っていた寺院であり、母からもよく話を聞いた。
善福寺界隈は寺町と言われ、その寺町の入り口にも善福寺の門がある。
今は善福寺正面入り口から見て、寺の後ろに元麻布ヒルズ フォレストタワーがあり、風流さが見られないのが残念だ。ここに一番近い交通機関は、南北線もしくは大江戸線の麻布十番駅になる。駅からは1キロも離れていないので徒歩十分程度。また、江戸時代の古地図を見ると、善福寺敷地と道を挟んだところにある屋敷が「松平陸奥守」の仙台藩の屋敷であり、この道がいつまでも「仙台坂」と呼ばれている。
実家に行くには、この門を入って突き当りの善福寺に向かう。その途中に、大きな柳の木がある。
この柳の木の根元の横にあるのが「柳の井戸」と呼ばれる東京の名湧水57選のひとつ。また、上述したように、この井戸の前が母方の祖父の法要(三回忌か?)の際に瀬親戚縁者と皆で写真をとった処である。
更に、登ってゆき、善福寺の入り口の処で右側に曲がると善正寺である。
玄関に入って右側に浄土真宗の教章が掲げられている。浄土真宗なので、経典は浄土三部経である。
玄関を上がると本堂がある。本堂に入った記憶は残念ながらない。
最近の母の実家界隈を見てきた。善正寺というお寺だけあって、今後も長く実家として残ってくれるだろう。
満足した家系図ではないが、1~3まで述べたことも考慮して作成した。法要には十分に使えるだろう!
杉野家と母の実家の南川家を書き、自分たちの立ち位置を示した。