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八海山の里「藤原」を訪ねておもうこと-プロローグ-


潟県南魚沼市「藤原」に妻の実家がある。

 

「藤原」は、下図にあるように越後三山(八海山、越後駒ヶ岳、中ノ岳)の山麓にある。鎮守の神様は藤原神社であり、ここには八海山からの湧水口のひとつである「雷電様の水」がこんこんと流れ出ている。この水は銘酒「八海山」に使われている

 

写真で見て「藤原」の右隣の「法音寺」には、実家が檀家である真言宗智山派の繁城山・法音寺というお寺がある。ただし、法音寺のある住所は「藤原」である。また、「藤原」の左隣は「妙音寺」があり、法音寺が訛ったのか元々は妙音寺だったのが法音寺と呼ばれるようになったのか定かではないが、藤原神社から直線距離数百メートルで白山神社がある。その言い伝えには後で調べた法音寺創建の由緒に近いものがあるようだ。

 

の「藤原」を訪ねると、いつもその地名の由来を想像する。

 

「藤原」と言えば、645年の乙巳の変を中大兄皇子(後の天智天皇)と共に実行した中臣鎌足(後の藤原鎌足)やその次男、もしくは天智天皇の落胤ともいわれている藤原不比等を思い出す。

 

地名にはよくそこに住む人物の姓名や、移住してきた先で昔住んでいた地名を付ける例がある。

 

であれば、南魚沼市「藤原」も「藤原家」の人々もしくはその関係者が奈良・平城京の都から移り住んだのではないかと想像したくなる(義姉さんの実家を継ぐKさんと同じ考え)。

ただし、地名の由来を「地名にはよくそこに住む人物の姓名や、移住してきた先で昔住んでいた地名を付ける」という考えに則るとすれば、

  • 藤原家と言えば奈良時代の大政治家であり貴族でもある。そのような高貴の人もしくはその関係者が魚野川流域の「藤原」の里にわざわざ来るだろうか?
  • 来訪していたならそれなりの理由があるはずである。
  • さらに、奈良時代には五畿七道ができつつあったとして、そのうち越後国にむかう北陸道を使っても平城京からは遠国・越後国まで17日間かかったようだ。こんな遠路に高貴な人達がわざわざ来るだろうか???

という疑問を解決しなければならない。

こで、結婚してから43年目になるが、毎回「藤原」訪問のたびに気になっていた「藤原」の地名の由来を調査してみることにした。

 

上記の疑問を順番に調査するために、下記のような論旨の構成をもって進めてゆく。


 第1章 「藤原」の地名について

第1-1節 200年前の古地図

第1-2節 藤原神社にある「雷電様の水」と法音寺の由緒

第1-3節 「藤原」周辺の神社仏閣の由緒から

第1-4節 「藤原」周辺に来訪した「藤原家」の人々

第1-5節 「藤原」という地名の由来について

第1-6節 全国の「藤原」の由来について

第2章 「藤原」の地の利:「藤原」周辺の地形からの考察

第2-1節 魚の川の歴史

第2-2節 南魚沼市の遺跡と古墳群

第2-3節 稲作からみた魚の川流域の土地柄

第2-4節 「藤原」の地の利

第3章 平城京から越後国「藤原」までの行程:越後国の地形からの考察

第3-1節 古志の国から越後国へ:豪族支配から律令国家へ

第3-2節 越後国の土地柄①:今でも新潟という理由

第3-3節 越後国の土地柄②:古墳群、柵が置かれた場所

第3-4節 奈良時代の平城京から越後国への行程

第3-5節 平城京から魚の川流域への行程

第4章 まとめ