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八海山の里「藤原」を訪ねておもうこと-第2章 「藤原」の地の利:「藤原」周辺の地形からの考察-


調査内容はこの後に順に述べるが、結論だけ先に列挙しておく。

  • 南魚沼市全体には古代からの遺跡(お隣の信濃川流域にある十日町・笹山遺跡で縄文時代中期(紀元前3,400~2,400年頃)の中頃の火焔型土器が出土するぐらいだから南魚沼市に同じような遺跡が多くあって不思議ではない)、また古墳時代後期の魚野川流域で代表的な古墳群が六日町余川周辺にあることから、魚野川流域は古代から人々の生活を営む地域であり、人々を纏める豪族が居たことになる。それだけに、 律令国家を目指す天皇とその側近(政治家である藤原家)から見ると、南魚沼市「藤原」周辺は価値のある土地柄となる。
  • 「藤原」にある繁城山・法音寺には、天平7年(735年)に藤原麻呂(藤原不比等の四男)が聖武天皇の勅命によって創建したという言い伝えがある。つまり、既に「藤原家」もしくはその関係者には「藤原」地域を利用価値のある土地柄と認識していればこそ、法音寺を創建するため藤原麻呂の関係者が「藤原」地域に移り住み、その地名を「藤原」と名付けた可能性がある。

なお、南魚沼市「雲洞」にある金城山・雲洞庵の創建の言い伝えにも、奈良時代、藤原房前公(藤原不比等の次男)の母君が出家して当地に庵を結び、金城山から湧き出る霊泉で多くの病人を救ったとある。また、母君亡き後、薬師如来を携えてこの地を訪れた房前公が、母親の菩提を弔う金城山雲洞庵を建立されたと伝えられている。この点からも、南魚沼市の六日町や塩沢地区には「藤原家」の人々や関係者が来ていたことと考えてもおかしくはない。

  • 一方、「藤原」とは魚野川を挟んで対岸にある「余川」周辺では、5世紀中ごろと推定される蟻小山古墳群や飯綱山古墳群が存在している。これを考慮すると、法音寺近くの義姉さんの実家の裏山は、十分に「古墳」と考えられる。近い将来、「藤原古墳」もしくは「法音寺古墳」として話題になるかもしれない。 

 第1章 「藤原」の地名について

第1-1節 200年前の古地図

第1-2節 藤原神社にある「雷電様の水」と法音寺の由緒

第1-3節 「藤原」周辺の神社仏閣の由緒から

第1-4節 「藤原」周辺に来訪した「藤原家」の人々

第1-5節 「藤原」という地名の由来について

第1-6節 全国の「藤原」の由来について

第2章 「藤原」の地の利:「藤原」周辺の地形からの考察

第2-1節 魚の川の歴史

第2-2節 南魚沼市の遺跡と古墳群

第2-3節 稲作からみた魚の川流域の土地柄

第2-4節 「藤原」の地の利

第3章 平城京から越後国「藤原」までの行程:越後国の地形からの考察

第3-1節 古志の国から越後国へ:豪族支配から律令国家へ

第3-2節 越後国の土地柄①:今でも新潟という理由

第3-3節 越後国の土地柄②:古墳群、柵が置かれた場所

第3-4節 奈良時代の平城京から越後国への行程

第3-5節 平城京から魚の川流域への行程

第4章 まとめ