末法思想とは(平等院建立の背景)


現在、法然が1198年66歳でつくった浄土宗・聖典「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」の思想について調査と整理をしている。

 

その中で最近気になったことは、宇治の平等院が極楽浄土の世界を表現していると言われ、法然が生まれる以前の1052年(永承7年)に建立されていること。

 

日本において法然が浄土宗を開創するが、それ以前に何故平等院が建立されたかが混乱していた。少しこの辺を調べてみた。

  • 平等院の建立年は、1052年(永承7年)
  • 1052年(永承7年)は、仏教の末法時代が始まる年
  • 末法時代とは、仏教の正法・像法・末法(正・像・末とも略す)の三段階に区切る時代区分(三時説)における三番目の時代
  • 正法(しょうぼう)時代とは、釈尊(しゃくそん、または釈迦牟尼世尊、釈迦、釈迦世尊、釈迦牟尼と呼ばれる)の入滅の後しばらくは、釈尊が説いた通りの正しい教えに従って修行し、証果を得る者のいる時代
  • 像法時代とは、正法の後、教と行は正しく維持されるが、証(さとり)を得る者がいなくなる時代
  • 末法時代とは、教のみが残る末法の時代へと移っていき、ついには法滅に至る

この辺りは、Web版(しんさん)浄土宗大辞典に詳しく出ている。同HPでは、

  • 三時説で起点となる西暦年は、釈尊(しゃくそん)の入滅年を周の5代目王・穆王(ぼくおう)52年(紀元前949年)の仏滅説とする
  • 各時代は、色々な説があるが、正法千年・像法千年説としている

ちなみに、三時説の年代的起点は、仏滅=「仏教の開祖・釈尊の入滅した年」。浄土宗大辞典では、仏滅年は、大別して3つの節があるようだ。

 

①紀元前624~544年説

東南アジアの仏教国が広く採用しているものである。国によっては紀元前623~543年とするところもある。この説は東南アジアの仏教国の伝説に基づくもので、学問的には疑問の残る説である。ただし仏暦などをつくるにあたっては、この説が基準となっている。

 

②前563~483年説

欧米の学者に広く認められる説。②と③はともに、初期仏教の保護をしたと言われるインド・マウリア朝・アシャーカ王の即位年代から釈尊の入滅年代を逆算するものである。ただし、その逆算の基準が異なるため、釈尊の生存年代にずれが生じるのである。②説はアショーカ王の即位年代と釈尊の入滅年が、218年隔たったとするスリランカの伝承に基づいた説である。また中国の伝承でも『衆聖点記』によった説は、おおよそこの年代論と合致する。③は日本で広く認められている学説で、アショーカ王の即位年代と釈尊の入滅年の間を一一六年とする説である。


③前463~383年説

日本で広く認められている学説で、アショーカ王の即位年代と釈尊の入滅年の間を116年とする説


なので、ここでは、浄土宗大辞典の「釈尊」の解説にある紀元前463年に生まれとし、80歳入滅なので入滅年は紀元前383年とする。

 

入滅年を紀元前383年とすると、末法が始まる年は正法千年・像法千年説をとれば、西暦1617年となり平等院建立年1052年と大きく異なる。

 

末法入年1052年説は、平安中期の時代背景があるものの、浄土宗大辞典「末法」解説では、釈尊が生まれる前の周王朝の5代目・穆王(ぼくおう)52年(紀元前949年)の仏滅説を採用しているが、その理由は書かれていない。

 

一方、正法・像法の期間は、同じ解説の中で、「日本では『日本霊異記(平安初期の仏教説話集。薬師寺の僧景戒(きょうかい)著。822年(弘仁13)ごろ成立)』がいち早く正法五百年・像法千年説に則り、延暦六年(七八七)はすでに末法であると表明している」という考え方がある。つまり、平安時代初期には既に末法という思想が現れており、その後に末法の入年が議論され、正法五百年・像法千年説から正法千年・像法千年説に置き換わり、1052年(平等院建立)となったのであろう。

 

仮に、末法入年を1052年(平等院建立)かつ正法五百年・像法千年説として仏滅年を逆算すると紀元前448年になる。これは上述した③説前463~383年説となり、そんな大きな食い違いはないので、ここでは改めて平等院は正に末法に入った年として理解しておこう。

 

これをもとに、デジタル年表(「仏教の時代観(三時説)」の項)を作った。

 

平等院は、時の関白・藤原頼通が、父・道長より譲り受けた別業を仏寺に改めたもので、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行する。

1052年は末法時代開始の年であり、確かに「貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行する」ことになるが、後の法然がどんな人でも極楽浄土に往生すると説く思想であるが、平等院の建立思想は貴族など高貴な人々だけ。


法然が浄土宗・聖典「選択本願念仏集(選択集)」作成にあたり参考にした祖を定義した。それが年表にもある「浄土5祖」と言われるもの。 デジタル年表にはこの点も含めている。

  • その始祖は中国・北魏の浄土教の僧・曇鸞(どんらん、476年から542年)であり、唐代に浄土教大成の基礎を築いた(選択集から)。つまり、平等院建立の約500年前に、インドから伝来した浄土教は中国浄土教として成立している。
  • 「浄土五祖」の年表のように、そののち、中国では道綽(どうしゃく)→善導(ぜんどう)→懐感(えかん)→少康(しょうこう)と伝わり、日本に伝来
  • 天台宗・最澄から円仁を経て、法然が仏教へ本格的に入ってゆくきっかけとなった「往生要集」の筆者・源信へと受け継がれる。
  • 源信の教えは、融通念仏宗の開祖・良忍→叡空(えいくう)→法然と伝わる

このように、法然が浄土宗を開宗する以前に日本では極楽浄土の思想が浸透し始めていることになり、平等院が平安中期の1052年に建立された背景が理解できた。