日本における末法思想の興り


前回は、平等院建立の背景として末法思想とは何かを調べてみた。

 

法然の「選択集(選択本願念仏集)」の調査の一環として、日本で興った末法思想について調べてみる。

 

新纂浄土宗大辞典の「末法」を参照してゆくと、その中に、

  • 「日本では『日本霊異記(平安初期の仏教説話集。薬師寺の僧景戒(きょうかい)著。822年(弘仁13)ごろ成立)』がいち早く正法五百年・像法千年説に則り、延暦六年(七八七)はすでに末法であると表明している。その後平安期後半に源信の『往生要集』や最澄に仮託した『末法灯明記』が著されるに伴い、末法思想は世に広く浸透した

と書かれている。

 

これを紀年の順で表すと、

  • 最澄に仮託した「末法燈明記」

最澄が801年(延暦20)に著したというが,真偽未詳。

  • 『日本霊異記(平安初期の仏教説話集)』

自度僧(あるは私度僧とも。自ら出家して修行する僧で公認されていない僧のこと)を経て薬師寺の僧となった景戒(きょうかい)が、822年(弘仁13)ごろに著す。これは悪行を避けて善行を積むようにという考え(因果応報の話)を人びとに教え、導くもので、仏教を布教するために、誰にでも分かりやすいようにと編纂されたものとされる。

  • 「往生要集」

源信が984年11月~985年4月に著す。法然が仏教に入るきっかけをもたらした著書

 

となる。となると、日本で末法思想を最初に取り上げたのは、真偽未詳であるが801年頃の最澄の「末法灯明記」となる。「末法灯明記」の成立801年説があるようだが、「日本霊異記」が最澄が没する822年に著されていることから、概ね820年頃には「末法灯明記」で末法思想が興ったと理解しておこう。

 

さて、その「末法灯明記」の内容は、浄土宗大辞典「末法灯明記」の解説によると、

  • 今世は末法間近であり、この時に至っては持戒堅固の僧は有名無実であり、無戒名字の僧こそが国のともしびとなること

を表明している。その主旨は、

  • 時代に即応した機と教えのあり方を問うていること
  • それには末法の時を『大術経』『大集経だいじっきょう』の説示より考察し、現今を像法の末としていること
  • 末法の時代には、釈尊の教えは残っても、行と証果( 仏語。修行の結果得られる悟りの果)はすでに廃れている
  • 従って、持戒・破戒は成り立たず、無戒の名ばかりの比丘(びく)のみこそ世の導師として敬われるべきであるとの結論に至る。

 

また、浄土宗大辞典では、このような「末法灯明記」は、「本書は法然の説法でも用いられた(『法然聖人御説法事』『醍醐本』)。また親鸞『教行信証』化身土巻にほぼ全体の引用。さらに栄西の『興禅護国論』、日蓮の『四信五品鈔』、金沢文庫蔵『伝法絵略記抄』にも用いられ、鎌倉前期の仏教界での本書の広がりを看取できる」と解説している。

 

となると、西暦820年頃には、既に「末法時代には、修行して持戒したり、あるいはそれを破戒したから僧ではないという規律を問うこと自体に意味はなく、無戒の人でも正しい仏の教えを理解していれば世の導師になれる」という考え方が興ったと理解しておけばいいだろう。

 

しかし、9世紀始めでは受戒した人が僧と認められる時代に、この「末法灯明記」の主旨は、当時の僧たちからみれば「仏教を正しく理解していない」と弾圧されたであろう。

 

以上、日本における末法思想の興りを調査してみた。