初本1982年(昭和57年)、文庫本初版1986年(昭和61年)なので、39年前の本。
古代史ど素人であるので、チェックマークを付けていったら無数についてしまった。こういう知識レベルなので、本の概要を最初に整理しておこう。
ちなみに、王、大王(おおきみ)、天皇のワードは、以下の定義とする。
王
初代神武~第18代反正
大王
第19代允恭~第39代弘文
天皇
第40代天武~
先ず、「古代史の迷路を歩く」も目次を列挙する。
天孫降臨と天香山
磐余宮への夢想
神武東征説話と日向王朝
崇神王朝と葛城王朝は並列か
和珥氏は軍事将軍か
オホタタネコの時代
ホムチ(ツ)ワケは実在したか
焼かれた天皇記の謎
崇神王朝の末路と景行・孝安
神功皇后説話について
皇統系譜と息長氏
日向王朝の祭祀
応神・仁徳王朝の始祖王
誉田山古墳の被葬者は雄略か
大山守の反乱の真相
ハヤブサワケと大津皇子
スミノエノナカツミコと東アジア
倭の五王と反正
允恭をめぐる諸問題
河内から大和へ
安康と眉輪王
雄略の時代
葛城氏と飯豊皇女
顕宗、仁賢は大王か
継体と蘇我氏
継体の出自は息長氏か?
蘇我氏は百済王族か
聖徳太子-蘇我氏に背いた人間主義
これらのタイトル毎に黒岩論について整理するが、その前に王や大王の流れを大きく黒岩論を整理する。そこで、先ずは各天皇の年代は、田辺論で校正したものを一応尺度として使うことにする。
黒岩論では倭国における最初のクニ(全国統一ではないのクニではない)として邪馬台国から始まっている。西暦246年に卑弥呼が没したあと 、女王は台与になり、266年頃台与は西晋に遺使を派遣する。黒岩論ではこの前後に台与は没したと推定している。つまり、266年に邪馬台国は消滅したことになる。
黒岩論の同本の時代の流れとしては、266年前後を起点として、270年~280年頃に分裂した邪馬台国のうち、北九州に日向王朝が興り、鉄製武器・海人族など強力な部族として河内に東征したのではないかとしている。
これらの流れをデジタル年表で表わしてみた。まだまだ、本書から読んだ内容で肉付けしてゆくが、現時点でのデジタル年表を下記に示す。
上段ブロック
宮内庁で記載されている歴代天皇の在位期間
中断ブロック
田辺論で校正された歴代天皇の在位期間
下段ブロック
黒田論による崇神王朝(崇神~垂仁までがイリ王朝、景行~仲哀までがタラシ王朝)
田辺論(中段)と黒田論(下段)を比較すると、時代的にはフィットしていることが分かる。
次に、黒岩論として、266年の邪馬台国滅亡を起点として、大きく分けて二つの東征が行われたとある。邪馬台国滅亡の以降からの流れを示すために、時間軸の参照用として上図の下段ブロックを残して、初期の畿内王朝の流れを下図に示す。
二つの東征は、
- 九州勢力(北九州に限らず)が邪馬台国滅亡の前後(266年~280年頃)に畿内への東征。東征後にヤマトに造った王朝が「崇神王朝(イリ王朝)」となる
- 奴国・伊都国周辺の北九州勢力が、4世紀半ばから後半にかけて、河内に東征。東征した後の4世紀後半から5世紀初頭にかけて、河内から大和に勢力拡大し、「応神・仁徳王朝」となる。