さて、吉田資料1の「弥生青銅器祭祀の展開と特質」を6回にわけて読んできたが、今回のブログでは、最終の第3章「3. 弥生青銅器を用いた祭祀の終焉」を読んでいく。
この論文によって、弥生時代前期から後期末葉まで、実用的な青銅器の出現、祭器として武器形青銅器と銅鐸がそれぞれ変容してゆくプロセス、また今回の最終章のように古墳時代に向けて青銅器祭祀の終焉までを理解できるようになった。今後古代史を読む際の基礎知識として役立ちそうだ。
では、最終章を読んでいこう。
論文「弥生青銅器祭祀の展開と特質」の構成
1. 弥生青銅器(弥生時代の青銅器)の登場
2. 弥生青銅器の祭器化
3. 弥生青銅器を用いた祭祀の終焉
3-1 後期の青銅器祭祀
3-1-1 青銅器祭器の分布
3-1-2 対馬の青銅器
3-2 青銅の行方
3-3 銅鏡の選択
3-4 小結
4. まとめ
...第3章の要点は、弥生中期末葉から後期になると青銅器文化が急速に終焉に向かうということになる。
- 弥生中期末葉
地域型青銅器を各地に成立させ,かつ青銅器としても研ぎ分けを施す中広形銅矛や最も精美な横帯分割型銅鐸等の出現をみた後,
- 弥生後期
青銅器・青銅器文化は終焉に向けた動きを加速させていく。
何より,銅剣の多くや近畿型銅戈が中期で製作を停止してしまう[吉田2011・2012d 等]。
後期には,(中略)中期以来の系譜を引く大型青銅器は,
- 武器形青銅器では、広形銅矛、広形銅戈,深樋式銅剣
- 銅鐸では、近畿式と三遠式が並ぶ突線鈕式銅鐸
- 実用的な各種小型青銅器
...吉田資料1にある弥生時代後期の分布(図21)と、再度、中期末葉の青銅祭器の分布図と合わせて、一枚のポンチ絵に示した。
...弥生中期末葉から弥生後期の分布図を見て、「あれ?」と思う点は、上図の赤枠エリアである山陰地域、特に出雲、まら畿内や東四国から武器形青銅器が見事に消えていることだ。
これは正に、出雲のクニが突線紐式銅鐸に取って代わったことを意味しており、出雲のクニは古墳時代を迎える前に既に畿内勢力によって、少なからず祭祀のやり方を変えられたのだろう。
荒神谷遺跡から出土した多くの銅剣埋葬の背景に少しは近づけたようだ!
ここまで、吉田資料1「弥生青銅器祭祀の展開と特質」を参考にして、色々に変容する青銅祭器をひとまとめにする資料があったので、今後の参考に資料に説明文などを付けて、下図に掲載しておく。

さて、吉田資料1を参考に、7回にわたり弥生時代の青銅器の移り変わりを読んできた。
このシリーズの最後に、吉田資料1の青銅祭器の終焉の最後のまとめとして、古代史の基礎3-1(弥生時代の青銅器祭祀とその終焉)とダブルが、以下引用して、このシリーズを終わるとする。
本論文の要旨から、武器用青銅器、銅鐸という二種類の弥生青銅器の登場、古墳前の墳丘墓の時代に地域ごとに祭器化した青銅器が変容し、墳丘墓祭祀から古墳祭祀へ交代していく中で弥生青銅器が終焉し、金属光沢と文様造形性という特質が融合して銅鏡に継承されていく流れが理解できる。
これらの点を吉田氏が整理してポンチ絵に表現したものを示す。非常に分かりやすい!!
最後に、
春成氏の論文に、弥生青銅器の時代(弥生時代)から古墳時代に移り変わる点に関して、興味あることが書かれているので、それを最後に引用させてもらう。
2世紀にそれぞれの地方をあらわす象徴となった近畿の近畿式銅鐸の最後は2世紀の終わり頃,東海の三遠式銅鐸と北部九州の銅矛はそれより少し早く最後を迎える。
1~3世紀,弥生後期は,各地の地方勢力が,それぞれ青銅器や墓制に何らかの象徴を見出し競った時代であった。象徴の種類は異なっても,その大きさで競いあった。器物の高さが1mを突破した近畿と吉備,そして巨大な墳丘墓を築き得た山陰,吉備,近畿は次の前方後円墳の時代を先導する強大な勢力として重要な役割を果たした。
魏志倭人伝によると,2世紀の終わり頃,倭国は乱れ,卑弥呼を倭王に共に立てることによって
乱は終息したという。銅矛・銅鐸を廃絶させたのは,それらに代わる「倭国民統合の象徴」として卑弥呼が登場し,彼女が配布する銅鏡が倭国と個々の首長との関係をあらわす象徴になったからではないだろうか[春成2002]。
その一方,吉備で誕生した特殊壷・器台は,3世紀中ごろには,奈良県箸墓古墳など最古の前方後円墳を飾る埴輪の祖型として採用される。