高橋克彦「風の陣 大望篇」


  タイトル 初出 文庫  (PHP文芸文庫)
立志篇 1995/12 2001/07 749年春・陸奥で黄金発見~757年橘奈良麻呂の乱
大望篇 2003/05 2004/10 760年秋~764年秋・恵美押勝の乱
天命篇 2007/09 2010/10  
風雲篇 2005/01 2010/07  
 裂心篇 2010/09 2012/10  

恵美押勝(太師=太政大臣)が乱を起こす前からの歴史小説。権勢を誇っていても、わずかな綻びから崩れていく様が描かれている。

 

一方、この乱の原因となる弓削道鏡の人間性も当然、嶋足の立場から描かれている。黒岩重吾の弓削道鏡像とは大きく異なる点も興味深い。

 

確かに、丸子嶋足と物部天鈴との繋がりは小説と言えど史実のように思えてしまうほどこの小説の凄さが理解できる。


この二人の実在性を調べてみよう。

丸子嶋足で調べると、道嶋嶋足として出てくる。生年は不詳となっているが、小説では橘奈良麻呂の乱から3年半たった760年に嶋足26歳となっているので、高橋説をとると生まれは734年となる。

 

ウキペディアを参考にさせてもらうと、「大望篇」で描かれている内容と一致する(史実と史実の間を結びつける小説の凄さ)。

 

天平宝字8年(764年)9月の藤原仲麻呂の乱において、藤原仲麻呂の子・訓儒麻呂が勅使・山村王を襲撃して御璽と駅鈴を奪った際、嶋足は授刀衛少尉・坂上苅田麻呂と共に孝謙上皇の勅命を受けて、訓儒麻呂を襲いこれを射殺した。乱における武功により従七位上から一足飛びに十一階昇進して従四位下に昇叙、宿禰姓を賜姓された。翌月の10月には授刀少将兼相模守に任ぜられ、翌天平神護元年(765年)に勳二等の叙勲を受け、近衛員外中将に任じられる。こののち道嶋宿禰に改姓。

 

天平神護2年(766年)にも正四位下次いで正四位上に叙せられるなど、称徳朝にて地方豪族としては異例の昇進を遂げた。神護景雲元年(767年)陸奥国大国造。この間近衛中将に任ぜられる。神護景雲4年(770年)8月蝦夷の首長である宇漢迷公宇屈波宇(うかめ の うくはう)らが朝廷軍との関係を断ち、配下と共に朝廷の支配が及ばない地に引き上げ、反攻の姿勢を示した際、嶋足は事実関係の検問のために現地に派遣された(宇漢迷公宇屈波宇逃還事件)。

 

光仁朝でも引き続き近衛中将(中衛中将)を務める傍ら、宝亀9年(778年)下総守、宝亀11年(780年)播磨守といった地方官や、内廐頭を兼務した。

 

桓武朝の延暦2年(783年)1月8日卒去。

 

確かに、実在した凄腕の武人で蝦夷から異例の出世をした人である。


一方、物部天鈴は、架空の人物である。

 

物語では、祖先が都から陸奥に逃れた物部氏の長。陸奥で蝦夷を支援し、その運命を一つにする。